エッセイ<随筆>




 よれよれ三人旅(20)

 


 
  翌朝五時。三人の神々のお目覚めである。昨夜来の雨もすっかりあがり、境内のあちこちでは小鳥がさえずる。やがて昇ろうとする太陽が東の空を明るくしている。
 まずは舞台の中央で軽く柔軟体操。足腰の筋肉に痛みを感ずるが、そんなものはものの数ではない。澄み切った空気がすべてを帳消しにしておつりがくるというものだ。
 顔でも洗ってさっぱりするかと、タオルを片手に境内に降り立った。昨夜は気づかなかったが、境内の端に雑品庫らしき建物と並んでトイレと洗面所まで完備していた。例しに水道の蛇口をひねってみると冷たい水がほとばしる。
 さすがに神様のなさることは徹底していると妙に感心する。顔を洗い、歯を磨く。このうえ何をか望まんや!

 この神社、名前を菅原神社といい、神殿の側に「重要文化財、古代の石棒」という標識が立っていた。けっこう由緒ある神社であるらしい。
 古代の石棒とやらがご神体。石棒とはなんぞや? ハッキリ言ってしまえば、陽根である。べつに珍しいことではない。女陰によく似た石をご神体とする神社もある。二つ並べて祈願するのがもっとも多い気がする。「どうか、今年も豊作でありますように」
 そして、神楽殿で田楽能とあいなるわけだ。男女の象徴をかたどったご神体は、生命と豊穣の象徴といえるだろう。昔の人のセックスに対するおおらかさは日本人の誇りだと思っている。その伝統を壊したのは、明治の文明開化で流入したキリスト教文化の影響ではないだろうか。

こんな由緒ありげな神社が地図に載っていないはずがないと、広げてみると確かに存在が印されていた。暗くなっていたので見落としたか、疲労で注意力が散漫になっていたのであろう。この神社の存在は奇跡でもなんでもなく、この世の現実の存在だったのだ。
 食物は昨夜で食べ尽くしてしまった。腹が空いても食べるものはない。早急に出立することにした。
 食事をした場所の整理と清掃。ゴミは袋に入れてリュックに詰める。神楽殿には箒などの掃除道具が揃っていた。我々は念入りに掃除をした。その後三人は、あらためて神殿に向かって柏手を打ち、一夜の礼を述べて神社を後にした。

 出発は午前六時。昨夜と打って変わって上天気だ。このぶんでは日中は相当暑くなりそうだ。朝方のハイペースは今に始まったことではないが、これだけの天候に恵まれれば、押さえろという方が無理である。
 おおよそ二時間歩いただろうか、殖栗にさしかかった頃にはさすがにノドの渇きを覚えてきた。小休止を兼ねて冷たいものでも飲んでいこうと、街道沿いのドライブインに立ち寄った。店の名前は「観音茶屋」なんともドライブインらしからぬ名前である。
 まだ時間が早く正式には開店していないようだ。まるで閉店間際の店舗のように店内は雑然としていた。
「いいですか」
 私が声を掛けると、しょんぼり新聞を読んでいた親父がこちらを向いた。鼻眼鏡で、なんとも冴えない男だが、ちょっと癖があるようにみえる。
「なんか出来るかね」
 マサさんが声を掛ける。すると、親父は黙って表の自動販売機を指さした。あそこで買えというらしい。我々は親父の言葉に従い缶コーヒーを買うと、とって返して図々しくも店内の椅子に腰をおろす。

 缶コーヒーを飲みながら、ミチさんは親父から話しを聞き出す。こういう事は彼の独壇場である。「観音茶屋」の由来を聞くと、
「近くに観音様があるから使わせてもらっただけだ」
 と、親父は素っ気なく答えた。面白い因縁話でも聞けると思ったのにガッカリである。それよりも、このドライブインの他に、もう一軒のドライブインと釣り堀を経営しているというから、この親父、見かけによらず大したものである。
「ところで、あんたたち、これからどこまで行くのかね?」
 この質問には慣れっこになっている。ミチさんが要領よく、かいつまんで説明した。
「それは、いいことだ。今じゃあ隣の村まで行くのにも車だ!」
 忌々しげに親父は言った。
「その隣村までどのくらいあるのかね」
「まあ、十里というところか、昔はみんな歩いてた」
「十里……」
十里という事は、四十㎞はある。もちろん可能な距離ではあるが、日の出から日没まで歩いたことだろう。しかも、徒歩旅行なんぞという大それたものではなく、日常生活の一部として。どうやら五十年で時間及び生活の感覚がまったく違ってしまったようだ。

「あんたたちが今歩いている道は日蔭街道といって、原町の大欅までつづいている。若山牧水も好んで歩いたというだけあって、なかなか味のある道だよ」
 ここで親父の老眼鏡がキラリと光って、口元に笑みを浮かべた。
「あんたたちもひとつ歌でも書き残して行かんか。後々の記念にどうかね」
 と水を向けてきた。あいにく三人にはその方面の素養はまるでない。恥をかくのが関の山だろうからと辞退した。
「さて出発するか」
 と立ちあがりかけると、
「原町までは大した距離じゃないが、そのスタイルじゃ暑くてやり切れんだろう。少し脱いでいったらどうかね」
 まるで追い剥ぎみたいなことを言う。しかし、もっともな忠告であった。昨日までの空模様とは打って変わった五月晴れ。気温もぐんぐん上がっていた。シャツを脱ぎ半袖のものに着替えた。身も心も爽やかになって出発した。

 日蔭街道…。誰が名付けたかはしらないが洒落た名前ではないか。なぜ日蔭なのか。周囲の地形の関係でこの道にはあまり日が当たらないのかも知れない。それても日蔭者が人目を忍んで歩いた道なのか。たとえば座頭市の後ろ姿をこの道に想像してみると、それなりにピッタリしないでもない。しかし、若山牧水と座頭市とはどう考えても結びつかない。 この道は吾妻川を隔てて県道とほぼ平行している。県道の方が道幅も広く舗装も立派だが、それは後に拡張したもので、昔はこちらの方が主要街道だったのではなかろうか。地図の上で村落の分布状況を比較してみても、それがうかがえる。

 ここで、記憶を頼りにかなりきわどいことを書く。ずいぶん昔の話しなのでいいだろう。この県道と、日蔭街道にまつわる話しを聞いたことがあるのだ。時は明治時代。日蔭街道沿いに、この土地の有力者であり政治家がいた。かれは、中央政界においてある権力者と真っ向対立した。中央政界の権力者は陰謀を巡らし、土地の政治家の地盤を切り崩すべく、吾妻川の対岸に立派な県道を造り、物資の流通の流れを変えた。そして、この素封家は没落していった。
 このさびれていった街道を誰言うともなく日蔭街道と言い出した。陰謀を巡らした中央の権力者なる者は、平民宰相として名高い原敬であった。

 曰く因縁のある県道と日蔭街道が交わる地点、まさにそのど真ん中といってよいところに、巨大な欅の木がそびえ立っていた。とてつもない大木だ。これほど成長するのにいったい何百年かかるものなのだろう? そばで見上げるとさすがに一種の迫力みたいなものを感じる。
 幹のあちこちには穴があり、枝で鳥がさえずっているのを聞くと、そこは、鳥や小動物の住家になっているのかもしれない。こいつにはとても敵わないなと、兜を脱がざるを得ない。黙っているが、小賢しい人間の思惑などすべてお見通しという感じだ。
「うどの大木」という言葉があるが、これくらい大きければそれだけで立派なものである。と、小賢しい人間は思ったりする。

 大欅を過ぎてしばらく歩くと、原町の市街に入った。この先は、店はおろか人家も無くなるはずだから、食料を調達した。
 原町を過ぎると道は徐々に登りとなる。右側は山で左側は吾妻川の清流。さらに遡れば、いわゆる吾妻渓谷となる筈だ。
 そろそろ腹がへってきた。思えばこの旅行記は食べることと、寝ることばかりを書いている気がする。まあ仕方ないでしょう。喰う寝るは人間にとってもっとも必要なことですから。「食欲、睡眠欲は性欲を凌駕する」体験的にそう言いきれる。つまり、種族保存本能より、個体維持本能のほうが強いわけである。
 講釈はともかく、食事は一日の行動の中では大きなウエイトを占めている。たとえ、パンと牛乳であってもいい加減な場所では取りたくない。歩きながら食べるなどはもってのほかである。
「あそこはどうだろう?」
「草の生え方が気に入らない」
「それではこっちは?」
「少々傾斜が急すぎる」
「あそこなら申し分なかろう」
 と遙か下の川原を指させば、
「あんな所まで降りていったら戻ってくるのが大変だ!」
 こんなふうに各自が勝手なことを言うものだから、「ここだ!」という場所は容易に見つかるものではない。結局は空腹と疲労に負けて、もうどこでもいいやという投げやりな気持ちになってしまう。

 それにしてもへんてこりんな場所を選んでしまったものだ。線路のすぐ側の竹藪の中。それもかなり傾斜が急で、安心して座っていられない。うっかり身体を移動させようものなら、お尻の下には竹の切り株が突き出ていたりする。こういう場所は避けるべきだという見本みたいな場所で、不自然な格好で寄り添うようにして食事をとることになった。なぜこうなったのだろう?
 メニューは例によって、というかバカの一つ覚えの、パン、牛乳、サバの水煮の缶詰。これらはもはや野外食に欠くことのできない三種の神器と言ってもよかった。
 食事はすなわち大休止。本来ならば手足を伸ばして睡眠をとるところだが、場所が不安定でそれどころではない。三人とも膝小僧を抱え込んでウトウトしているのが、やっとである。これが果たして休息と言えるだろうか? なんでこんな場所にしたんだ!

 
 
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