ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界





 第一章 朱色の獅子 <前章>


 「予想通りだ。敵も然る者だが、我らは無敵だ。七日もあれば新バビロニア軍は総崩れになる」
 夕日は、大地と幕帳に降り注いだ。影と黄金色とに包まれた、ひときわ巨大な幕帳の中にアッシリア軍の本営がある。今、並み居る群臣を前に皇帝アッシュル・ウバリト二世は、傲然と言い放った。
 紀元前七世紀の末、肥沃の三日月地帯と称されるアッシュール平原でのことである。

 「皇帝陛下の威光を覆うものは存在しません」
 「バビロニア軍勢はチグリスの藻屑と消えるでしょう」 
 諸将軍は、息を弾ませ呼応した。
 新バビロニア軍を蹴散らした儘、幕帳の中に入ってきた興奮が渦巻いている。
 幕帳の外では、大騎兵軍団の馬陣が、勝ちどきを挙げるかのように蹄の音も高く大地を蹴散らしている。
 アッシリア皇帝は前線で相手と刃を交わし戦うことは希だが、前線を駆けめぐり叱咤激励するのが慣わしであった。
 勇気を誇示し全軍を奮い立たせるのである。
 今、皇帝ウバリト二世は、アッシリア軍の特徴である鉄の兜を脱ぎ、胸当てを取ると、玉座に腰を降ろした。
 「被害の状況を述べよ」
 「ハ! 詳細はまだですが、死者、数十騎かと・・・・・負傷者は数百になるかと・・・・・」
 「敵の損害は?」
 「・・・・・死者、数百騎にのぼると思われます・・・・・」 
 ・・・・・下問・・・・・返答・・・・・戦場の常として殺気だっている。
 「傷ついた者は後陣に回し手厚く介護しろ・・・・・死体の収容は?」
 「伝令を出しました・・そのうち報告があるかと・・・・・」
 死体収容の為、停戦が行われることになる・・・・・  
 
 戦場に持ち込んだ玉座を備えた幕帳は、数百人を収容できる巨大なものであり、本営としての役割も果たす。
 数多くの燈明が、微かに揺らめき緞帳に影を映す。その巨大な緞帳に囲まれ、皇帝は玉座に鎮座している。 
 地平線の見渡せる平原に点在する、兵士の居住用の幕舎は数千を数えている。十数㎞先の新バビロニアの軍勢も同様な陣を敷いていた。 
 チクリス河畔のアッシュールの平原に、十万のアッシリア軍と十二万の新バビロニア軍の先鋒が展開を始めて二日になる。両軍が結集を終えれば、合わせて二十数万人という、オリエント世界の覇権をかけた最大規模の激闘が予想される。
 騎兵による前哨戦はすでに始まっていた。
いかに、新興の勢いのある新バビロニアといえども、最強を誇るアッシリアの騎兵軍団に、緒戦においては蹂躙される結果となってしまったのだ。

馬上の兵士の眼は血走り、顔は緊張に引き吊っていた。大会戦の前兆戦が、今まさに始まろうとしている。
 陽の登るのを待ちかねるように、アッシリア軍の斥候騎兵が本営を出たのは、まだ薄暗い早朝であった。単なる偵察を目的としたものではなく、戦うことを念頭においた、強襲斥候である。
 両翼から各千騎、中央から千機の三千騎の陣容であった。砂塵を蹴立てて数千の馬が爆走した。
 さすがに、両軍ともに偵察は怠りない。昨夜のうちに動きを察知していた、新バビロニア軍の二千の騎兵も呼応するように進発した。
 二千騎のバビロニア軍と激突したのは、アッシリアの千騎の中央騎兵軍である。
 砂埃をあげ、全力疾走する両軍は、真っ正面から激突した。
 怒号と馬のいななきに包まれ、槍と剣が交差し火花がちる。 
 馬がぶつかる衝撃で落馬したものは、その場で踏み殺された。
 槍が切り出され胸板をつき、血が噴き出す。
両軍入り乱れての混戦は長くは続かなかった。
 「引けー!」
 「後退だー!」
 アッシリア軍から怒声が響き渡たった。
崩れるかに見えたアッシリア騎兵は、抵抗しながらジリジリと後退を続ける。
 総崩れになるのも時間の問題と思われた時、右翼の軍、千騎が大地を揺るがす唸り声をあげ、新バビロニア騎兵に襲いかかる。
乱闘はさらに壮絶な戦いとなった。
 不意を突かれた、新バビロニア軍は退却を始める。そこに、襲いかかったアッシリアの左翼軍は戦場を一気に引き裂いた。持ちこたえられず、新バビロニア軍は総崩れになり、自陣へ向かって、無秩序に逃走を始めた。
 勢いに乗った、アッシリア騎兵軍団は敵の、本体の一部を掠め歩兵と遭遇すると、左右に展開し、深追いすることなく引き揚げた。 
 オリエント地域を席巻したアッシリアの騎兵軍団は、健在であった。

 皇帝ウバリト二世の幕帳では、玉座を囲む緞帳の中、諸将が集結し軍議が開かれた。
緞帳の外では、警備兵が槍を立て十数人が取り巻いている。  
「歩兵の展開はどうなっているのか?」
 軍議の中心は皇帝である。彼は膝に手を置き、身を乗り出すようにあたりを睥睨しながら口を開いた。
 長い顎髭をたくわえ、炯々たる眼光は人を射るようであった。 
 居並ぶ、歴戦の将軍たちも、気圧されている。
 「後、七日は掛かると思はれます・・・・・アナトリア軍団の到着が、遅れております・・・・・」
 「敵軍の展開を説明せよ」
 「敵は本拠地のバビロンより、続々と兵を集結しつつあります。エジプトからの援軍が遅れている様であります。ハルミラまで到達しているとの情報がはいりました」
 「ハルミラから此処まで、幾日、要するか?」
 「おおそれながら、いかに早くとも十日は掛かるかと・・・・・」  

 アッシュル・ウバリト二世は決して凡庸な皇帝ではない。歴代のアッシリア皇帝の血を引き継ぎ、勇猛さでは引けを取らないと言える。
 只、激するといささか狂騒の振る舞いが目立つ。
 彼の不幸は、父、アッシュル・バンバル皇帝があまりに偉大すぎたことにある。
バンバル皇帝は、エジプト遠征に勝利し、シリア、メディアの反乱を平定、アッシリア帝国の版図を最大にした。
 軍略に卓越していたばかりではない。
 文芸、諸外国語に通じた教養と、人徳を兼ね備えたまれにみる偉大な皇帝であった。
 首都ニネヴェに古代オリエント最大の図書館を建立したのも彼だ。
 偉大なる皇帝が急死したため、後継争いの内乱の嵐が、十五年に渡ってアッシリアじゅうを吹き荒れた。
 叔父、兄弟を殺戮し、権謀術数渦巻く後継争いに最終的に勝ち残り、ウバリト二世が皇位に付いたのは二年まえのことである。
 父である前皇帝を凌ぎ、オリエント中に名を轟かす野望に身を焦がすほど執心が、彼の心を捕らえていた。 
 長い内乱の間、国力は消耗した。エジプト、バビロニア、リディア、メディアと各地に反乱が相次いだ。
 アナトリアにリディアを撃退し、今、新バビロニアとエジプトの連合軍を粉砕すべく、アッシュール平原に陣をかまえたところである。

 「アナトリアのリディア攻略は成功した。キュルテベの戦いに於いて、敵軍をみごと粉砕し、アッシュール平原にて、アナトリア遠征軍と合流するのも予定通りだ・・・・・」
 「陛下の軍略には、恐れ入るばかりです・・・」
 「世辞は聞きとうない・・・・・メディア王国の状況を説明せよ」
 「ハ! こちらも予定通りであります。一万の我が軍が、ラガエの城塞に籠もり、ウラノス将軍旗下の四万のメディア軍を引き付けております」
 皇帝は満足そうに頷いた。
 その時、彼の念頭に、一人の男の名が閃いた。
 「パルコス・・・・・パルコス将軍の所在は・・・・・」
 皇帝は決して顔色に出さぬが、メディアの獅子と称される、パルコスの行動が気になるようであった。
 「ペルシスのスキタイ族に反乱を起こさせました。パルコスは一万の軍団を率いそちらに向かっております。此の戦場からは、千㎞以上、離れた彼方であります・・・・・こちらも、予定通りです」
 会議の終わりを告げるように、皇帝は立ち上がると、拳を突き上げ宣言した。
 「すべては予定通りである。アナトリア軍団が到着しだい、総攻撃をかける」
 「ウォー!」
 「皇帝バンザイ!」
 「アッシリア・・・・・バンザイ!」
 方々から鬨の声があがった。
ウバリト二世にとって、今回の会戦は決して、負けることの出来ないものであった。
 帝位に着いて二年、小規模な戦闘では、すべて勝ちをおさめた。しかし、家臣群の崇拝を受けているとは決して言えない状態である。
 余りにも偉大な、バンバル皇帝を凌ぎ、家臣の崇拝を得るには、オリエント一帯を己の
版図にしなければならない。
 ウバリト二世は、強い焦りを感じていた。

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