ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






   第四章 救済の劫火<2>

   
翌朝のことである。メディア王国、エクバタナの宮殿は、慌ただしい空気に包まれていた。
 パルコスは宮殿の自室で、溜まった疲れに一瞬ではあるが嘆息を漏らした。かつてのパルコスには考えられぬことであった。「朱の獅子」も老いには勝てぬだろうか? その事実は、パルコス自身が、近頃とみに感じている。 
 本来は、こういう時こそ、ネストルが必要なのだが、彼はパルサの地であり。クレオンもリディア国境にいる。二人とも、パルコスは呼び寄せる訳にはいかない。
 しかし、事態はそんな場合ではなく、急を要するのだ。メディア王国の執政官の要職にある者が、暗殺の標的になったという事実は動かしがたい。
 誰が、どのような組織がアリウスを狙うというのだろう。確かに、アリウスは国の中枢の地位にあり、国家組織の再構築は彼が中心である。しかし、彼の構想は実施の段階にある。今、彼を倒したところでどうなるものでもない。
 最高会議の席上オロデスと鋭く対立することもあるが、それほど憎しみあっているとも思えない。それに、オロデスはアステュアゲス王子の叔父ではないか、王子が最高会議のメンバーになった後ならまだしも、今、軽率に動くことはかえって損なはずだ。
 では、外部の組織の仕業か? しかし、今、メディア王国と敢えて事を荒立てようと謀る国が、有るとも思えない。どうしてもパルコスには今回の襲撃事件が納得いかないのだ。
 パルコスは首を振った。何かが違うのだ。十年前の自分には、事に当たりこのように困惑することはなかった。明晰な頭脳は、為すべき決断をしすぐに行動に移した筈であった。

 パルコスの部屋には、人々がひっきりなしに出入りし、指示を仰ぐ。顔ぶれは、警務を司る、内政官。宮殿及びエクバタナを管区とする、親衛部隊の幹部連中であった。
 なにしろ、白昼、メディア国の執政官の屋敷を襲ったのである。近年にない大事件であった。
 集まった人々は、それぞれの立場より、人の配備、探索の段取りについて侃々諤々の論議を交わしていた。
 そのとき、あわただしく扉を叩く音がした。
「パルコス閣下! 失礼致します」
 息を切らして部屋に入って来たのは、オリオンだった。
「閣下は今、多忙である。控えおれ!」
居並ぶ、高官の一人から、鋭い叱責の声が飛んだ。一瞬、オリオンは立ち尽くしてしまった。
「重要な打ち合わせの最中である。暫し待たれよ」
 と、別の高官がいった。
 オリオンが直立不動の姿勢をとった。
 パルコスはゆっくり立ち上がると発言した。
「まて! 丁度良い機会である。今より、この者を副官に任命する。いや待て、儂はもう軍人ではなかった。言い直す、補佐官とする。左様心得よ」
と、大声でパルコスは宣言した。
「はッ!」
 その場の、全員が顔を見合わせた。法治国家という概念は後の世のことである。今この場で、オリオンの、パルコスの補佐官就任は決まった。むろん、本来はキュアクサレス国王の勅令を必要とするだが、パルコスは特別であった。
パルコスは、ざわめき混乱する部屋を後に、オリオンを別室に連れ出した。
「オリオン、で首尾はどうだった」
 と、パルコスは低い声で言った。
 たった今、補佐官の辞令を受けたオロデスは、興奮して歯の根が合わなく見える。それも無理は無いことだ。単なる執政官付きの補佐官ではない。パルコスの補佐官と言えば、先ほど彼を叱責した、高官よりも立場は、一瞬にして上位になったのだ。 
「おい! オロデス、しっかりしろ」
 今度は、愛情あるパルコスの叱責が飛んだ。
「はい! ご報告申し上げます。このたびの件につきましては、オロデス閣下が非常に驚かれ、内政担当の執政官として徹底調査をするよう指示を出されました。軍関係ではクレオン将軍の名で、全軍に探索の指示が出ました」
「あい解った」
「国を挙げての探索です。犯人の背後関係が解るのも時間の問題だと思われます」
まだ、オリオンの声に固さが残っている。
「そうか、しかしそう簡単には解明できまい」
「と申しますと?」
 パルコスには、事件が今ひとつ納得できない。喉に棘の刺さったような不快感がある。 オリオンは、パルコスの返事が無いためか、畳み掛けるかのごとく言った。
「恐れ多いことではありますが、意見を言わせていただきます。パルコス閣下の名で探索の命令が出ないものでしょうか? 『朱の獅子』の指示ともなれば、あらゆる部署の人間が必死に動くはずです」
「それはならぬ。儂が何時までも表面に出てどうする。次代を背負うものが、模索しながらも、この国の未来を切り開かねばならないのだ。お前もその一人ではないか!」
 オリオンはパルコスの言葉に感極まったとみえ、膝かガクガク震えだし、眼も潤んでいる。
「かッ、閣下」
 続く言葉が出てこない。
「馬鹿者! 何を感激しておる。ネストルには知らせたか?」
「はい、第一報の、伝令はお出ししました」
「血の気の多い、ヤクシーも居ることだ。心配することのないよう。再度、詳しく知らせよ」
「はッ、承知いたしました」
 オリオンが部屋を駆け出ていった。
パルコスは巨体を椅子に置いたまま、腕組みをし、眼を閉じた。

 その時、部屋を慌ただしくノックする音が響いた。今出ていったばかりの、オリオンが駆け寄りドアを開けた。
「アリウス閣下がお見えです!」
 パルコスはすかさず立ち上がると吠えた。
「こちらに、お通しせよ!」
 オリオンに案内されて、アリウスが颯爽と部屋に入ってきた。
「パルコス閣下、随分慌ただしいことですね」
 まるで人ごとのように、アリウスが話しかけた。
「おいおい、お主の身の上に起こった事ではないか。それはそうと、身体は大丈夫か?」
「御心配をお掛けし申し訳有りません。もう大丈夫です。それより、リディアより導入した、貨幣制度の不備に対する改革の方はいかが、相成ったでしょうか? なんとかこの一~二年物流が上手く行き、市場に物が溢れるようになりました。物流の要は、貨幣制度に有ります。今手を緩めるわけにはまいりません」
 この男の脳細胞はどうなっているのだと思うと、パルコスは心底あきれた。
 宮殿内を揺るがす大騒動の当事者がこれでは・・・・・パルコスにもどうにも判断出来ない。
 アリウスの思考は、宮殿内の騒ぎと別の所に有るらしい。確かに、パルコスの言うとおり、アリウスは、自らの身の危険に対する危機感が欠落していると思える。



 同じ頃、同じ宮殿の奥、アステュアゲス王子の私室で、四人の男が密かに会合をもっていた。
 王子、オロデス、フラーテス、そして、どういう訳かラオメドンの姿もあった。
「どうするのだ、失敗したではないか」
 王子は腺病質に見える顔を曇らせながら不安そうに言った。
 やはり、アリウス襲撃の首謀者であり、後ろで、手を引いていたのは彼らだった。
「王子、うろたえることはない。事は始まったばかりです」
 オロデスが、勿体ぶって言ったが、内心不安そうである。
「折角のチャンスであったが残念だ、警戒はますます厳重になると思われる!」
 フラーテスも動揺の色は隠せない。
「必死の探索を続ける真似をしなければなるまい。暫し時を置いて、次のチャンスを窺うしか無いであろう」
 と、オロデスが言った。
「我々の謀りごとが、顕わになる危険もあるのでは?」
 アステュアゲス王子は、せわしげに膝の上に置いた指を動かす。
「王子、御心配召されるな。そのための対策は、十分に出来ておるではありませぬか」
 フラーテスの肥満した額にはうっすら汗が滲んでいる。
 ラオメドンは先ほどから一言も発しない。ただ、ソファーに座り足を組んでいる。
 漆黒の薄い衣を身にまとい、妖しく微笑みを蓄えた表情も姿勢も微動だにしていない。端整な顔立ちに、酷薄さが浮かんでいる。

「ラオメドン殿、貴殿のお考えは?」
 フラーテスが尋ねた。どう見ても、メディア国の最高幹部が、一介の「マゴイ」に一目置いている発言だとしか思えない。
「そうだ、そもそも今回の企ては、貴殿の立てられた計略だった。失敗した今、当然次の手は考えて居られるのでしょうな」
 オロデスも失敗の責任を、ラオメドンに被せようとする一方、彼を頼りにしているらしく見える。
 微動だにしなかった、ラオメドンの口元が緩んだ。
「第一段階は上首尾でした」
「えッ! 何と申される」
 三人が同時に叫んだ。
 三人は次にラオメドンの口から発せられるであろう言葉を待った。しかし、ラオメドンは、話しを続けない。
 シビレを切らしたのは王子だった。
「ラオメドン殿、何故に上首尾だと申される? 教えて下さらぬか」
 ラオメドンはこの言葉を待っていた。すでに三人はラオメドンの術中にはまり、彼の手の内に入ってしまったのだ。 
「あの様な襲撃で、パルコス閣下を倒すことが出来れば、僥倖としか言いようがない。アリオス邸で二人同時に襲わせたのは、攪乱させるために他ならない。あくまで標的は、パルコス閣下であることをお忘れ無きよう」
「それは解っておる。しかし、アリウスも邪魔だ」
 オロデスは、何度にもわたる屈辱を受けたアリウスの事が、頭から離れないらしい。
「焦点はパルコス閣下です。あとはどうにでもなります、王子、失礼ですが貴方の父君キュアクサレス王は、もはや執務をすることは叶わぬ精神状態であられます。パルコスなき後、メディア王国の実権を握るのは、この場のお三方より他には居りますまい」

 ラオメドンは先ほどより、ほとんど表情を変えない。瞳は暗い洞窟のように底が知れず、まるで人ごとの如く話す。時より端整な顔が、不気味な笑みをこぼした。
「ラオメドン殿、次の手はどのように考えて居られるのだ?」
と、黒い顎髭を撫でながらオロデスが尋ねた。
「それは、任せて戴きたい。必ず仕留めてご覧にいれます」
「今は、我らにも申されぬとでもいうのか」
 オロデスの顔に朱が走った。
「まあまあ、オロデス殿、最初から任せると言うことでしたので」
 フラーテスがなだめるように言った。
「アッシリアの残党の件は、如何に」
 気を取り直すとオロデスが尋ねた。
「私の指示通りに彼らを使ったのならば、彼らから貴殿たちにたどり着くのは不可能です。もう少し泳がせ捜査を攪乱いたしましょう」
「彼らとの約束は?」
「オロデス殿、心配には及びません。彼らは捨て駒です、そのうち消えて貰いましょう。あるいは他の役目を担うことになるかもしれませぬが、いずれにせよ、彼らの命運は私の手の内にございます」
 と、ラオメドンは事も無げに言い放った。自らの目的の為には、人間の情熱、人の命は羽毛よりも軽いとでも思っているらしい。
「オロデス殿の名を、少し騙らせて戴きましたが」
 オロデスの顔が青ざめた。
「な、なんと! 名を騙ったと申すのか・・・・・」
 その場の空気が一瞬凍り付いた。三人の顔に不安の色が浮かんだ。オロデスは言い返す事が出来ない。三人は今さら、引き返す事の出来ぬ地点に立っていた。もし、今、ラオメドンを切り捨て、引き返すならば、自らの身の破滅を招くことは間違いがない。
 周到なラオメドンの術中にはまってしまったのだ。
 黒い服を纏った、ラオメドンの褐色の瞳がキラリと光った。そして、口の片方をつり上げ、ニタリと笑った。
 ラオメドンの放つ、酷薄の雰囲気に呑まれた三人の背筋に、冷たいものが走った。
「ラオメドン殿、約束のマゴイの神殿はこのエクバタナに必ず建てる。今進めているゾロアスター教を排除し、マゴイの信仰を国教としよう。その教主はそち以外にはあり得ない」
 気圧されたように、オロデスは以前した約束をくりかえした。
「よしなに」
 抑揚のない声で、ラオメドンはつぶやいた。約束に拘っている風にも見えない。それが、さらなる不気味さをかもし出していた。


 三人は額に皺を寄せ、気ぜわしげに声を荒げて話し続けていた。
 ラオメドンは愚かしいとばかりに、自分の想念の世界に漂い始めた。 
 今のパルコスならば、自分が全霊を尽くせば間違いなく殺れる。ラオメドンは確信をもって自分に言い聞かせた。
 彼は知っている、「朱の獅子」の現役のころの姿を。近づくことはおろか、遠間からでも正視することすら出来なかった。今のパルコスは変わってしまった。彼を貫いていた強固な意志が衰えた気がしてならない。今のパルコスならば、自分でも殺れる! と彼は思った。
 
 ラオメドンが自己の想いに囚われていた間、他の三人は、形相も険しく打ち合わせを続けた。権力を握った場合の思惑が、それぞれにあるらしい。
 ラオメドンは興味が湧かない。その気になれば、メディア国をも支配できる形勢に在りながらも。神殿も本当に望んでいるのかどうか疑問である。 
 物欲、名誉欲、権勢欲、肉欲、食欲、睡眠欲・・・・・、人の行動の発露はすなわち、煎じ詰めれば全てが欲望であろう。
 欲に対する行動の軌跡により、その人間の価値が決まる。詰まるところ、たかがそれだけでのことではあるまいか。
 彼らの権勢欲に繋がる話しが、ラオメドンの心に響いてこない。ラオメドンは自分の欲望が何処に在るか、冷静に見極めようとしていた。
「私が口を挟む話しは、終わったようですな。では、失礼いたします」
 ラオメドンは席を立った。他の三人も慌てて立ち上がった。
 一礼すると、ラオメドンはきびすを返し出口へ向かった。
 フラーテスが慌てて後を追った。
「ラオメドン殿、なにとぞよしなに。それと、あのッ・・・・・」
 フラーテスが、顔にかいた汗を手で拭いながら、懇願するように小声で言った。
「承知致しております」
 そう言うとラオメドンは、懐から小さな壺を取り出すと、こっそり手渡した。媚薬の粉末が入った壺であった。
「では、お気をつけて。我々が一緒に出ては拙いですからな、バラバラに出ていくことに致しましょう」
 と皆に聞こえるように、フラーテスは無意味なことを言い。ブヨブヨした手でラオメドンの肩に手を置いた。
『ブタめが!』
 ラオメドンは言いしれぬ嫌悪感に襲われ、心の中で毒づいた。

 宮殿を出ると、ラオメドンは道を急ぎ、市場の外れにある自分の寺院へと向かった。
 道々考えた。何時ものことだが、あの三人と話した後は、ひどく不愉快な気持ちが暫く続く。奴らはクズだ! 目的のために利用するだけ利用してやれと、自らを納得させるのだが、利用しなければならぬ事が、不愉快なのである。
 寺院に着いた。それ程立派な寺院とは言えないが、かなりの大きさがある。市場の外れに、それはひっそり建っていた。あたりに建物はない、茫々たる草に囲まれ、ポツンと蔦に覆われ建っている石造りの建物だ。
 頼まれて祈祷や占いに出かけることも多いが、最近は信者が寺院に来ることを、頑なに拒んでいた。この静けさが、彼の気に入った生活である。今さら神殿もないものだ。
 大きい樫の扉をあけると、中に入った。生き物の気配がしない。少年と少女を、マンダ本山に送り出して以来、一人住まいであった。あれ程までに、拘っていた少年少女を調教する意欲がまったく失せてしまったらしい。
 ラオメドンの心の中で何かが変わったのだ。そのことを彼は知っている。
 彼は、とある部屋に入った。その部屋は、壁面一杯が棚になっており、棚には壺と書籍が並べられていた。
 部屋の中央には大きな机があり、どのように使用するかも解らぬ、不思議な器具が置かれていた。
 彼は机の前に座り、伏せてあった本を開き、書き込みを入れながら作業を始めた。媚薬、秘薬を造るのだ。少なくともこの作業をしている間は、ラオメドンは他の想いに惑わされることは無い。



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