ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第一章 梟雄割拠 


 四頭の騎馬と一台の馬車が、東方への道を急いでいた。五つの黒点が、岩肌の山並みを縫うように進んでいく。そびえ立つ岩山は、風の浸食作用により削り取られ、切り立った無機質の相貌を顕わにしている。時にもろい岩石が崩れる音か微かに響く。
 過酷な自然が僅かにそこだけは許したかのように、谷底の地面はなだらかな高低を持ち、何処までも続いている。疎らに草も生え、決して馬車が走りづらいことはない。
 岩肌に挟まれた行程を、乾いた風が吹き抜ける。

 エクバタナを出発して、一昼夜は過ぎていた。あわただしい出立であった。エクバタナ郊外のマゴイ寺院が、天空を焦がす大火災を発生してから三日と経っていない。
 オリオンの決断は早かった。以前から帰郷の後、覇を立てる計画は順調に進めていたのだが、何かに憑かれでもしたかのように、間髪を入れず行動に移った。
 目的地は彼の生誕の地、ダハイである。出立にあたり親衛隊、護衛隊の数十人が、彼に従うことを表明した。
しかし、オリオンは、自己の野望を含めた思いを熱く話し、彼らにこの地に留まるよう説得した。彼らは、パルコス、アリオス亡き後のメディア王国の前途に絶望して、オリオンに従うことを望んでいた。しかし、この時点で、数十人が突然エクバタナを去ることは、あまりの重大事であり、必ずや大規模な追っ手が掛かることは、彼らにも十分に理解できた。オリオンの説得に、同志としてメディア宮廷における謀略活動をすることを渋々ながら承知したのであった。
 今、オリオンを含めた六人が、乾いた大地を砂塵をあげながら疾走している。

「サティー様、苦しくはございませんか」
 馬を走らせながら、幌を被った馬車に近寄り声をかけたのは、オリオンだった。彼の相貌からは気持ちの整理が付き、目標を定めた覇気が伝わってくる。
「大丈夫です。気になさらず先を急いで下さい」
 馬車の中から、サティーの声がした。彼女は自己の運命に忠実になろうと、意を決したのだろうか、今の彼女の声からは落ち込んだ様子が感じられない。
 彼女にとっては、この二日間というものほとんど茫然自失の状態であった。食事も喉を通らず、ほとんど睡眠も取ってはいなかった。自らの魂がアリウスという男に捕らわれていたことを、狂おしくなるほど自覚してしまったとでもいうのだろうか。眼は虚ろで何物をも捉えていないようであった。
 今のサティーの落ち着きは、はたして立ち直った姿と言えるのだろうか。それともニネベ、エクバタナ、そしてアリウスと、大切なものを失ってしまった諦観によるものであろうか。そう、彼女の運命は大切な人々をこの数年次々と失い続けていた。

 ユイマは、先頭を走っている。ステップ草原で毎日馬に乗っていた勘は身体に染みついており、久方ぶりの乗馬にもかかわらず、馬と一体になった走りは見事なものである。
 ユイマは何も考えたくなかった。記憶の一部を抑え込み、思念がそちらに向かうのを必死に拒否をする。彼もまた、サティーのように、自らの宿命の定めに逆らうことなく、流れに漂う決心をしたのであろうか。しかし、夜空を焦がす炎の乱舞は、眼を閉じれば今でも網膜に焼き付いており、色あせることはない。
 蝶が、幼虫から蛹になり成虫になるように、十七歳のユイマは幼体から蛹になろうとしているのだろうか。それにしても、あまりに過酷な幼体時代ではあった。 
 ユイマは、アリウスを忘れることが出来ないだろう。彼を理解することは果たして出来るのだろうか。今も、白いドレーパリーに優しく身体を包まれているような感じをぬぐい去ることが出来ない彼である。ユイマがアリウスを理解できる日が来るまで、ドレーパリーの呪縛から解放されることは恐らくないであろう。あたかも繭のように、蛹の時を過ごすのであろうか。
 馬上で揺れる彼の胸には、琥珀のペンダントが、何かを訴えるかのように揺れていた。

 ユイマの頭巾は、乾いた強風を受けて頭部より外れ、金髪が後ろになびいている。長袖のチュニックを身につけ、ズボンを履いた上にポンチョのような物を被っている。すべては強い日差しを避けるためだ。
 オリオンと他の三人も同じ格好をしている。精悍な二人の男はアッシリアの残党で、カストルとタンタロスという。どちらも年齢は三十代半ばであろう。
 もう一人、馬車の手綱を取る男は、オリオンが雇った道案内の初老の男であった。
 六人は追っ手を気にしながら、オリオンの生誕の地、ダハイへ向かっているのだ。

「オリオン殿、どうやら追っ手の心配はないようでありますな」
 声をかけたのは、カストルだった。黒い顎髭を蓄え、太い腕には針金のような毛が生えている。風貌とは異なり、横長の黒い眼は知性の煌めきが窺える。
「まだ、安心出来ぬ。ナマク湖までは、このまま一気に行こう」
「承知、我らは、かまいませぬが・・・・・」
「分かっておる。気がかりはサティー様だ。先ほど声を掛けた時は、元気そうであったが、カストル殿、サティー様を気遣いながら先を急ごう」
「オリオン殿、心遣いありがとうござります」
 オリオン、サティーそしてアッシリアの残党の間での話は、既にまとまったようである。彼らは単に、オロデス旗下のメディア軍から逃れようというだけでなく、勢力を蓄え混迷の世の中に、積極的に討って出ようとしていることが、その瞳の輝きから伺える。

「ユイマ殿、貴殿の乗馬技術は、たいしたものでござるな」
 タンタロスが、馬をユイマに並び掛けると、にこやかに呼びかけた。痩身ではあるが、上背があり精悍な顔つきをしている。腕の筋肉は細くはあるが、鋼のようだ。少し吊り上がった栗色の瞳は、自然に彼の意志の強さを表していた。
 アッシリアの二人は、ユイマを、「殿」「貴殿」と呼びかけてくれる。ユイマは一人前に扱われているような気になり、心地よさそうな顔をしている。
「私は、物心付いた時から馬に乗ってました。だから、馬に乗っていても自分の身体の一部のように自由に動けます」
「アッシリアの騎兵でも、貴殿ほど自由に馬を操れるものは希です。確かスラブ族だと聞き及んでいますが、スラブ族は皆そうなのですか?」 
 カストルもそうだが、タンタロスが単なる仲間以上の好意を、ユイマに寄せていることは間違いがない。人をして引きつける天性の魅力がユイマには備わっているらしい。
「そうです、スラブは平原の民です。馬は生まれた時から側にいる家族なのです」
「スラブ族の居住地とは、ずいぶん離れていますね。そして、益々離れる方向に進んでいる。帰りたいとは思いませぬか?」
「私には、帰るところはありません。サティー様と同じです」
「・・・・・これは失礼致した。余計なことを聞いてしまいました」
 そういう、タンタロスにも帰る地はない。
 一行の六人は、強い日射しのなか、それぞれの思いを胸にダハイへの道を急いでいた。

「おぉーい、ユイマっ!」
 後ろから、オリオンの呼ぶ声がした。
 ユイマは、手綱を引き絞ると馬の向きを変えオリオンのもとへ走った。
「ユイマ、先へ走って、行く手を探ってくれ。道を間違えていなければナマク湖までそう遠くはないはずだ」
「承知しました」
 駈け出そうとするユイマに声が掛かった。
「ユイマ、気をつけてね」
 サティーが、幌をたくしあげて心配そうな顔をのぞかせている。
「大丈夫だよ、サティー」
 そう言うと、ユイマはにっこり笑い腰の短剣に手を当てた。いま、サティーを呼び捨てにする者はユイマしかいない。本当の姉弟のような関係である。
「サティーこそ大丈夫かい。馬車で揺られる方が、馬の背よりも疲れるよ」 
「皆さんの、足を引っ張るようで申し訳ないわ」
「サティーは、すぐそう言うことを言うんだから。今回の旅の間に、僕が乗馬を教えてあげるよ。では、行くよ」
 ユイマは、駈け出した。三年間のブランクをものともせず、馬のたてがみをなびかせ、蹄の音も軽く颯爽と掛けていく。あたかも、解き放たれた若駒のようであった。
 しばらく走ると、岩山を抜け出て、眼前に広い草原が拡がった。ユイマの胸は躍った。懐かしい光景だ。ユイマは馬に鞭をいれ全速力で疾走した。
 風が頬を切る。草が後方に飛び去る。頭巾が外れ、ユイマの金髪がたなびいいている。ユイマの心は解放されたらしく呼び声をあげた。
「ヤァーッ、ヤァー・・・・・」
 心が軽くなる。屈辱的な出来事、悲しかったこと、懐かしい想い、すべてを忘れ空になったような顔をしてユイマは走り続けた。

 狭隘な谷底を抜け、平原に入ると眺望が一気に開けた。ユイマは馬を止める。遙か前方で、水面が陽を照り返し、眩しい光の乱舞が望まれた。
 ナマク湖だ!
 ナマク湖は周囲二百㎞近くある巨大な湖である。水深は浅く、雨期と乾期では面積を大きく変え、塩分をわずかに含むが飲み水としては問題はない。
 砂漠に囲まれた湖ではあるが、西部と南部には集落が点在している。

 ユイマの先導のもと、六人はナマク湖の南岸にたどり着いた。サティーも馬車から降りると、すらりとした両手を掲げ背伸びをした。馬車に揺られ続けたせいか、足下がおぼつかなく見える。彼女の服装は、他の男たちと同じいでたちをしていた。
「サティー様、さぞかしお疲れでしたでしょう」
 カストルが優しそうな眼で話しかけた。皇女という呼びかけは止めたらしい。
「大丈夫です。それにしても、美しいところですね」
 ナマク湖は、茶色の岩石も顕わな、シーアー山の麓に位置している。巨大な盆地を形成し、周辺の高地から幾本もの川が流れ込んでいた。岸辺こそ灌木が茂り、草に覆われてはいるが、背後の山塊は茶色の岩肌で植物は見あたらない。それだけになおさら、湖の蒼い水面と岸辺の緑が色鮮やかである。
 一行が足を止めたところから遙かな沖に、湖の中に草に覆われた平らな島が見える。無数の水鳥が繁殖し空を飛び回る。この湖はかなり魚影の濃いことの証拠ででもある。
 サティーが景色に見とれている間に、男たちは、岸辺の木立の陰を宿営の場所とし、準備に入っていた。
「ごめんなさい、景色に見とれていました」
 サティーが我に返ったように言った。
「お疲れでしょう。どうぞ休んでいて下さい」
 オリオンが答えた。
「そうは行きません、お手伝いいたします」
「サティー、休んでいてよ。変わりに僕が働くから」
「ユイマ、大丈夫なの?」
 サティーが心配そうに言う。
「大丈夫だよ、僕も一人前の男だよ」
「分かったわ、では食事に支度をするから、その革袋二つにたっぷり水を汲んできたちょうだい」
「えッ! この革袋?」
「そうよ、早く汲んできて」
 サティーの指示した革袋は、とてつもなく大きなもので、水が満たされれば一つだけでも大変な重みになることは明らかだ。
「サティー、本当に二つもかい」
 ユイマは、実に情けなさそうな顔をした。 
「六人分だからね、必要なのよ。立派な男なんでしょ」
 ユイマは、革袋を引きずるように、肩を落とし水辺に向かって歩き始めた。背後で、サティーとオリオンが含み笑いをしている気がした。
 ユイマは、自分自身で気づいていた。無理に明るく振る舞う自分の不自然さを。アリウスの死が与えた与えた衝撃は、彼の心に消すことの出来ない陰を落としていたのだ。あるいは十七歳という年齢のもたらす陰影であるかもしれない。
 もしかすると、サティーもまた、ユイマの微妙な変化に気づいていたふしがある。

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