ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





第三章、平原の月と狼<3>


 パサルガダエは、それほど大きな都市とは言えないが、それでもダハイの数倍の規模を持ち、新興の活気に溢れていた。場所はザクロス山脈の南面に位置た高原である。後年、ペルシャ帝国歴代の皇帝は、キュロス大王の建設したパサルガダエの宮殿で即位式を行う慣例となった。その際、新皇帝はキュロス大王が生前身に着けた、上着を羽織って儀式に臨んだとされている。
 キュロスは痩身で華奢な身体であったとされ、後に続く歴代の皇帝も同じような体型であり、ペルシャ皇室の身体的特徴であったとされている。代々、キュロスの上着を着ることの出来た理由が、ここにあると言うのは穿ちすぎだろうか。
 聖都パサルガダエから直線距離で五十㎞南西の場所に、後年、古代ペルシャ帝国の首都として、あまりにも歴史的に有名な、帝都ペルセポリスが建設された。

 一方、パサルガダエの北方1,500㎞の地、カスピ海のほとりダハイ城で、オリオンが覇権を握ってから、二年が経っていた。ダハイを束ねた、オリオンの勢力は、勢いを増しカスピ海東岸のみならず、南岸のヒルカニア地方にまで及ぼうとしていた。
 キュロスも二十代半ばになっていた。いまや彼は、パサルガダエを中心に、広大な版図を築き上げ、メディア王国から実質的な独立をとげ、独自な道を歩みはじめていた。

 高原の太陽は、時と共に輝きを増し、パサルガダエ城内に降り注いでいる。キュロスは、宮殿三階の自室より広場を、もうずいぶん長いこと見続けていた。紅色がかった褐色の眼は、感情の動きも見せず、飽くことなく涼やかな色をたもっている。
 数刻の後、広場に騎馬が駆け込んできた。宮殿の入り口で斥候らしき男は、手綱を衛兵にゆだねるのももどかしく、慌てて馬を乗り捨て入り口に消えていった。
 その光景を認めたキョロスの顔が緩み、微かに微笑むと何度か頷いた。

「ご注進! ご注進!」
 パサルガダエの宮殿に、息を荒げた男が駆け込んできた。先ほどまで、荒野を馬で駆けていたらしく、顔は砂に汚れ、衣服も乱れている。
「何事だぁっ!」
 銅鑼の割れるような大声が宮殿に響き渡った。髭面の大男が、長刀のコジリを床につけ仁王立ちになって出迎えた。勇者コカロスであった。
「謀反! 謀反であります!」
 男は、コカロスの前でひざまずいた。
「な、なんだとッ! 何処だ!」
「め、メイナーであります」
「メイナーだと! おのれ、一気に踏みつぶしてやる」
 コカロスは、長刀を脇に抱え直すと、そのまま駈け出しそうになった。そのあまりの勢いに、斥候の男は言葉を発することが出来ず、眼を剥き、口を開いたまま固まってしまった。
「まて、コカロス!」
 これまた大声であった。コカロスに比べその声には、落ち着きが窺える。コカロスを引き留めた大男は、ケペウスであった。強弓を得意とし、コカロスと共に戦場においては、常にキュロスの側にいて護衛の役目をしている。現に、二人がキュロスの命を救ったことも、一度や二度のことではない。
 青ずくめの甲冑に、黄色い帯を巻いたキュロスの姿は、常に戦闘の最前線にあり、何物かに憑かれたように駆け回るのが常であったのだ。人をして、蒼き狼と呼ばれ、恐れられていた。

「おい、伝令! 落ち着いて、報告しろ。謀反と申したな……メイナーは、我らが版図の都市ではないぞ」
 ケペウスは、間髪を入れずに質問を発した。
「さ、さようでございます。ケペウス様、メイナーが……あの小都市、メイナーが、メディア王国に謀反を起こしたのであります。なにとぞ、メムノン様にお取り次ぎのほどを……」
 男は、メムノンの手の者であるらしい。
「何と……あのメイナーがメディア王国にか?」
 コカロスが驚いたのも無理はない。メイナーと言えば、メディア王国がパサルガダエ牽制のために懐柔し、あえて多大の援助を与えている前線基地という位置づけであった。


「殿下、ついにメイナー城がメディア王国に謀反を起こしましたぞ、そのうち、クーパエー、アバデーと次々に名乗りを上げる手はずになっております」
 メムノンによって、張り巡らされた情報網から、ここのところ次々に緊急の伝令がもたらされた。彼は、右頬にある傷を引きつらせて真剣に報告を始めた。
 会議室は、王宮の三階に位置し、質素ながらも堅牢に作られたテーブルと椅子がならんでいる。活気溢れる街の騒音も、この部屋には響いてこない。
「メイナーが、ついに火を付けたと申すのか……」
 老人は、静かに目を伏せた。彼は、メイナー城に立て籠もる人々の被るであろう悲劇に、思いを馳せたのだろうか。老人はデュマスだった。キュロスの幼少時代から、養育係として、付き従ってきた彼は、歳を取り、スーサの会合の時に比べても、頭髪と顎髭の白髪はさらに多くなっていた。
「いよいよ始まりましたな。我々の進むべき道はメディア王国を打ち破ることだけです。ペルシャの版図に属さない都市が、巨大なメディア王国に反乱を起こしたのです。一見無謀に見えますが、我がペルシャのキュロス王を後ろ盾にと考えたに違いありません。またそのように仕向けたのは我々ですが」
 パルコスとアリウスに薫陶を受けた、あのネストルであった。褐色の髭を蓄えた彼は、かつての美青年から、偉丈夫と言うに相応しい貫禄を身に着けていた。

「いよいよ、待ちに待った、この日が来たか。なんとかデュマスの往生際に間に合ったな」
 そう言うと、キュロスは、ニヤリと意味ありげに笑った。袖付きのゆったりとした、足下までの長いチュニックを身に着け、その上にカンデュスという貫頭衣のようなものを羽織っている。戦場での彼は、青を基調とした衣服で有名であったが、戦場以外では、暖色系の生地に黒い刺繍を施されたものを好んだ。
 紅褐色の長髪は大きく波打ち、同色の瞳をした彼が醸し出す雰囲気は、人を包み込むようなおおらかさを漂よわせていた。
「馬鹿な! この老いぼれは、まだまだ死にはせん!」
「怒るな、デュマス。多分、この場の四人の中でお前が一番長生きをするであろうよ」
「その件に関しては、自分も殿下に同感であります」
 ネストルが、微笑みながら同意した。キュロスは、即位し王を名乗っている。父親のカンピュセス王は引退し、彼は即位と同時に、自らの民族の呼び名を、パルサからペルシャへと改めたのだ。これこそ、古代オリエント世界を統一し、史上初めての大帝国を築いた、アケメネス朝ペルシャの出発でもあった。 

「殿下、メムノン殿の報告によりますと、クレオン将軍との連絡は緊密のようであります。ダハイのオリオン王は、殿下に従っておりますぞ、なにとどぞ再考致しては、頂けないでしょうか」
 デュマスは、真剣な眼差しをキュロスに向け、先日の会議で決定した事柄を、再び持ち出した。すがるようなデュマスの視線を受け止めると、キョロスは、ネストルの方に視線を移した。
「ネストル、そちもデュマスと同じ考えであろうな」
「いかにも、殿下さようでございます。その方が間違いはございません」
 ネストルも、キュロスを正面に見据えた。
「ネストル、いや、メムノンもディマスも聞いてくれ。私は、どうしてもオロデスが支配するメディア王国と独力で戦い、勝たねばならないのだ。ネストルと、偉大な軍師グライコスが、練り上げた戦略はその後に、実行に移そうと思う」
 グライコスとは、キュロスが必死の思いで、パサルガダエに招聘したアッシリアの伝説の軍師であった。人と交わるのを極端に嫌い、街中の民家を所望しひっそりと住んでいる。
宮殿に昇ることなど、もってのほかの変人であったが、妙にネストルとは気が合うらしいのだ。
「そ、それではリスクがあまりにも大きすぎます。独力でメディア王国と戦うなどと、しかも時は急を要します」
「デュマス、独力と言うのはいささか当を得ておらぬぞ。確かに、パルコス将軍はほとんど独力でアッシリア帝国を倒したが、私には、お前や、ネストル、メムノンなど、極秘事項を共有できる同士もおるではないか」
「そ、それは……あまりに」
 今まで黙っていたメムノンが、そう言うと、キュロスから視線を外した。あたかも表情を悟られまいとするように。
「いや、メムノン、謙遜することはない。私は正直に申しておるのだ、そうであろうネストル」
「恐縮でございます」
 ネストルには、悪びれた色は窺えない。端正な顔は動揺を見せず、青みがかった眼で、キュロスを見つめている。ネストルの穏やかな顔色をみると、彼は心が落ち着いてくるのを感じた。戦略の構想など、実に精密で機械的な思考をする男である。しかし、情がないわけではなく、時間が取れれば、妻のヤクシーと共に、自前で、ギリシャ古典の教育を子供達を集めてやっている。
 キュロスが、彼と知り合って、五年経っただろうか。短い歳月にもかかわらず、いまや無くてはならない存在になり、全幅の信頼を置いている。それに応えるかのように、ネストルもまた、キュロスに忠誠を尽くすのだった。
 キュロスは、彼が自分を透して遙か彼方視線を投げかけているのでは無いかと思うこともある。爽やかに、ある方向へ導いてくれる気がする。征服した地の、社会制度、風俗習慣をそのまま大事にする政策は、キュロスのものだと、流布されてはいるが、もしや、ネストルの影響ではないかと、思うこともある。

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