北 に 潜 む
<4>



 
 「シンペイさん、お先に失礼します」
「おお、もう11時か、お疲れさん」
 浩之がバイトを初めて一週間が経っていた。彼の勤務時間は午後4時から11時までの7時間だ。初めは緊張の連続だったが、今では自然に挨拶が出来るようになった。自分が客商売が出来るとは、半月前には考えられもしないことだった。コンビニエンスストアには何かが有るのだろうか?
「ヒロユキ、お前ずいぶん明るくなったぞ」 
 そう言うと、シンペイさんは微笑んだ。太い眉毛の下の目尻が垂れている。
「そ、そうですか…」
「ああ、そうだとも、カオルちゃんもそう言っていたぞ」
 頬に僅かに血がのぼる。おそらく頬に赤みが差していると思った。なぜだかうれしくなり、心が軽くなる気がする。
 カオルさんは、午後2時から7時までが勤務時間である。シンペイさんは午前12時から午後12時までという長時間勤務らしい。
 その他に、男子大学生と主婦のパートが数人、そして、オーナーの六十代半ばの老夫婦でこのコンビニは運営されている。

「ヒロユキ、弁当を忘れるなよ」
「はい、頂いていきます」
 本当は禁止なのだが、最初の日からシンペイさんは賞味時間切れで破棄する弁当を、浩之に持たせるのだった。今日も、夜食と朝食分に、彼は二つの弁当を持って帰る。これは経済的には凄く助かる。シンペイさんは、すべてお見通しのようだった。
「おい、今度見せてくれよな」
「は、はい…でも恥ずかしいから」
 シンペイさんは、浩之が絵を描いていることに興味をもったらしく何度か見たいと頼まれた。しかし、浩之は自分の描いた絵を人に見せた事がない。小さい頃はいざ知らず、中学生になってから描いた絵は、母親も含めて誰にも見せたことは無い。
「別に、無理にと言う訳じゃないから、気が向いたら頼むよ」
「シンペイさん、絵が好きなんですか?」
「ああ、けっこう好きだよ、自分では描かないが、友人にそれで飯を食っているのがいる」「へー、そりゃ凄いや!」
 むろん絵を描くことを職業にしている人が居ることは知っていたが、浩之にとっては雲の上の存在で、身近な存在だとは想像だに出来なかった。浩之が絵を習ったのは、小学校と中学校の教師からだった。高校になって不登校になったのは、絵を教えて貰う人がいないことも原因の一つだったかも知れない。

「いや、大したことはない。それほど才能が有るとも思えん」
「でも、絵を描いて生活してるんでしょ、そんなの想像も出来ません」
「いや、お前の方が上手だという気がする」
 シンペイさんは腕を組み、頷きながらそう言った。決してからかっている感じではない。
「そ、そんな、僕の絵を見たこともないのに…」
「見なくても分かるさ、何百冊のノートに色鉛筆で描き続けてるなんぞは凄いぞ!」
「お金がないから…」
「色鉛筆だけなのか?」
「水彩とクレヨンも少しあるけど…バイトが勤まりそうなので、今度はクレヨンを買って描いてみようと思ってます」
「うん、うん…で、描いているのは漫画か、イラストか?」
「そんなの、分かりません…」
「じゃあ、誰の絵が好きなんだ? 好きな作家は?」
 シンペイさんは興味深く聞いてくれる。こんなに自分のことに興味を持った人は、浩之にとって初めてだった。

「む、ムン…」
「えっ、悪い、よく聞こえなかったんだが」
「ムンクです」
「ム、ムンクだと!」
 シンペイさんにとっては予期しない答えだったようだ。
「シンペイさん分かりますか?」
「ああ、有名だからな…でも、まさかムンクとは…ヒロユキの絵が益々見たくなったぞ」
 シンペイさんは、自分で納得したように、微笑みながら何度も頷く。組んでいる腕が凄く太い。高校、大学とラグビーの選手だったらしいので、そのせいだろう。

 ドーンと音がした。開けきらない自動ドアにぶつかって男が入ってきた。
「えーい、くそー!」
 男は悪たれをつく。かなり酔っぱらっているらしく足下がふらつく。作業ズボンに汚れたタオルを頭に巻いている。
「おい、ねえちゃんはどうした! あのくそたれ女を出せ!」
 カウンターにぶつかりかねない勢いだ。浩之の心臓がちじんだ。喉が詰まって声が出ない。彼はシンペイさんを見た。シンペイさんは、腕を組んだまま何時もと同じように微笑んでいる。浩之はホッとすると同時に思い出した。夕方、カオルさんと揉めていた男だったのだ。彼女から、けんもほろろに扱われ、すごすごと出て行った男だった。どうにも我慢が出来なかったらしく酒の勢いを借りて押しかけてきたらしい。
「もう帰って、いませんよ」
 シンペイさんは、カウンターから出てくるとあくまで優しく話しかけた。シンペイさんの巨体に圧倒されたように、男は萎縮した。しかし、その分虚勢を張りだした。
「嘘いえ! 隠してるんだろうが!」
「まあ、そう怒らないで、いったいどうかなさったんですか?」
 シンペイさんの誘いに男はしゃべり出した。呂律がおかしく内容はよく分からないが、カオルさんにこけにされたらしく、怒っていることは理解できる。
「ふん、ふん…」
 シンペイさんは、辛抱強く話しを聞いている。店内にいた若い男の客も遠くから成り行きを見つめる。
「分かったよ、おじさん、彼女にはよく言って聞かせるから、お客さんもいるしおとなしく帰ってくれないかな」
 そう言いながら、シンペイさんは両手で男の肩を掴んだ。丸太のような腕で、握力は95㎏と聞いたことがある。
 男は目を見開き、シンペイさんを見つめる。動こうと焦るがどうにも出来ないようだ。シンペイさんは髭を少し動かしながら、穏やかな眼をしている。
「う、うん…それならいいけど…」
 男は頷く、酔いは醒めてきたらしい。シンペイさんは肩を抱くように男と一緒に外に出て行き、すぐに帰って来ると、何ごともなかったようにカウンターに入っていく。

「店長! さすがですね!」
 若い男の客が拍手をしながら寄ってきた。シンペイさんはちょっと苦笑いをする。客は少し興奮している。
「あんた、最近入ったバイトらしいけど、この店長は凄いんだぞ」
 客は浩之に話しかけてくる。少し年上の大学生ぐらいだろうか。
「そ、そうなんですか?」
 浩之の声は少しうわずっている。
「コンビニ強盗を、ふん捕まえて警察に突き出したり、暴走族を締め上げたり、このあたりじゃ有名な店長なんだ!」
「宮本君、よしなよ」
 若い男はシンペイさんの顔見知りらしい。そう言えば、この店では夜になると駐車場でとぐろをまくコンビニ特有の不良少年の姿を見たことがない。
 浩之は感心すると同時に、ふと変なことを思った。強盗を掴まえるときも、シンペイさんは微笑んでいたのだろうか? そんなことは絶対無いはずだ。しかし、彼にはシンペイさんが怒った顔が想像できない。

「宮本君、彼はこんど入ったヒロユキだ。よろしくな」
 シンペイさんが紹介してくれる。
「太田浩之です」
「あ、どうも宮本です。ヒロユキ君は何をやってるの?」 
「えっ…」
 浩之は返事に詰まった。
「うちの店で働いてるんだ」 
 シンペイさんが助け船を出してくれる。
「まぁ、そりゃそうだ…」
 宮本君は笑ってその後を聞いて来ない。何となく聞くべきではないという雰囲気を感じたらしい。どうやら繊細な気配りが出来る人のようだ。
「俺、ちょくちょくこの店に買い物に来るけど宜しくね」
「は、はい」
「ヒロユキ、宮本は未成年だから、酒とタバコを売っちゃいかんぞ!」
「店長、おれ二十歳になったって言ったじゃないですか! ヒロユキ君は、まだみたいだけど」
「僕、十八です」
 同年配の若者に、厭な顔をされずに話しかけられた経験は浩之にとって久しぶりだった。何かが変わっていくようだ。でも、人が本当に変われることがあるのだろうか?

 シンペイさんは三十代半ばに見えるが、実際は四十を越えているらしい。でかくて強くてまるで小人の国のガリバーのように頼もしい。もう一人、八時には帰っていくカオルさんは、もの凄い美人で気が強うそうだ。彼女は午後二時から七時までの五時間勤務。これだけでは生活できないだろうに、他には何をしているんだろう。
 浩之が他人のことが気になりだしたのは、本人は気づかずとも大きな変化である。

次ページへ小説の目次へトップページへ