永遠に未完の組曲
男はつらいよの巻(一)



 
 世の中には不幸な男もいる。
 本人にはまったく責任は無いのだが、なぜか災難をその男が呼び寄せるとしか思えない。往々にしてこの手の男は、善良で弱々しいと決まっている。
十月の日曜日の午後、渋谷駅東口、東急文化会館前の路上に頭を抱えて、うずくまっている男がいた。背は高く痩せ形で、日曜というのに、スーツとネクタイの格好をしている。典型的な、不運を呼び寄せる男に見える。群衆は、男を避けるようにして歩いていく。
「コンドーせんせい、何してるの?」
 甘ったるく、リズミカルな声で、若い女が呼びかけた。
「あッ、摩美ちゃん」
 顔を持ち上げた、男の額からは血が流れている。摩美と呼ばれた若い女は、バックからハンカチを取り出し、腰を屈めると、近藤先生の額に当てた。タイトなスカートが身体に密着し、健康的な足が太ももまで顕わになった。襟ぐりの大きな紫のセーターからは、大きな胸がこぼれ落ちそうだ。
「せんせい、だめよ喧嘩なんかしちゃ」
「ちッ、違うよ。喧嘩じゃないよ。あれだよ」
 近藤が指さした先には、血の着いた缶コーヒーが転がっていた。
「あれが、上から落ちてきて頭に当たったんだ」
 中身の入った、缶コーヒーが上から落ちてくるなど、あり得ないことである。ビルのガラス窓は当然開閉出来ないようになっており、ベランダももちろんない。現実問題としては、誰かが空に放り投げたという推理が出来るぐらいだろう。
 ともかく、渋谷の東急文化会館の前で、缶コーヒーに頭を割られ血を流している男がいることは事実である。
 摩美が身を乗り出して缶コーヒーを見た。薄赤く染められた髪には弱くカールが掛けられている。愛くるしい魅惑的な横顔が、近藤の息のかかりそうな所にある。
「あらッ、コンドーせんせい。どうしましょう鼻からも血が出てきたわ」

 目黒区青葉台には、閑静な高級住宅が並んだ一画がある。渋谷駅前と若人の集う代官山からも程よく離れている。そこに、ブロックなどという無粋なものではなく、赤い煉瓦造りで年季の入った塀に囲まれた洋館が建っていた。
鉄製の大きな門の柱に、名字だけの大理石の表札が埋め込まれている。表札には、『北御門』と彫り込まれていた。旧華族ではないが、かなり由緒ある家柄だと伺われる。
 煉瓦に囲まれた敷地は四百坪はある。建坪も平屋で七十坪近く、七部屋と食堂があり、
母屋とは別に、立派な倉庫が敷地内にあった。場所が場所だけに、大変な資産価値である。「ちッ、一寸待ってくれ!」
 北御門家の広い応接間のソファーに腰掛け、二人の男が将棋を指していた。壁に掛けられた洋画、部屋の調度品からして、どうにも将棋はそぐわない、チェスとはいかないものだろうか。待ったをかけたのは、この家の家長、北御門貴彦であった。
 家長と言っても、年は二十八歳とまだ若く、背は高く百八十五センチぐらいはあり、眼は切れ長で、直毛の髪の毛はさらさらしている。多少時代遅れの美丈夫とでも云う表現が適切であろう。
「先輩、もう三度目ですよ待ったは。いい加減にして下さいよ」
 そう言う、熊田一雄は、貴彦の高校時代の後輩で、警視庁に奉職する刑事だ。身長は貴彦より五センチ程低いが、驚くべきはその横幅である。体重は百二十㎏はあるだろう。柔道五段、空手三段の猛者で鋭い目つきをしている。
「頼むよ、お願い」
 貴彦は、身体を折り曲げ、手を合わせて熊田に頼み込む。
「しょうがないな。今度だけですよ」
 そう言いながら、熊田が駒に手を延ばした。ニッコリ笑った顔は優越感に溢れている様だった。熊田が、貴彦に対し優越感に浸れるのは、将棋だけだ。他は何をしても、貴彦には叶わない。無論暴力においても。

「お兄ちゃん!」
 玄関をけたたましく開けると、特徴のある摩美の叫び声が貴彦の耳を貫いた。
「摩美! どうした!」
 貴彦は、血相を変え部屋から飛び出した。そこには、摩美に抱きつく様に肩を預けた近藤がいた。もう一方の手で額を押さえたハンカチからは、血が溢れている。
 駆け寄った、貴彦は近藤のハンカチを外し、傷口を調べた。
 傷口から眼をはずし、摩美にしなだれかかる近藤を改めて見た瞬間、貴彦の顔色が変わった。半歩、間合いを取ったかと思った刹那、貴彦の裏拳が炸裂した。中指の握りが正確に眉間の急所を打ったのだ。ついでに手の甲が近藤の鼻っ柱に触った。
「キャー!」
 摩美の叫びの中、近藤はその場に崩れた。止まっていた鼻血がまた勢いよく吹き出した。「ふざけるな! 傷と言える傷じゃない! 頭は出血が多い事を利用して、摩美に抱きつくとは、とんでもない奴だ」
 近藤は倒れたままどうやら意識がないらしい。当然、貴彦の言葉も聞こえていない。
「騒がしいわね」
 落ち着いた、優雅な声だった。貴彦が振り返ると、長女の麗子が立っていた。黒いマーメードラインのロングスカートには、スリットが入っている。白いブラウスに薄手のカーディガンを羽織った姿は、すこぶる付きの美形であった。ほっそりとして、幽玄の美を醸し出していると言っても言い過ぎではあるまい。
「あらあら、近藤先生じゃないですか。また、お兄様に叩かれたのね」
 麗子が、また、と言うところを見ると、しばしばこういう事態が起こっているらしい。「摩美さん、近藤先生の靴を脱がせてあげなさい。熊田さん、ぼーと突っ立っていないで、私が、風呂にお湯を入れますから、風呂場に運んで、裸にひん剥いて湯船に漬けて下さいな」
「裸に、ヒッ、ひん剥いて、湯船に漬けるのでありますか」
 熊田が、口を半開きにした。いつものことでなれているとは言いながら、麗子の醸し出す雰囲気と、口をついて出る言葉のギャップには驚かされる。
「熊田さん、ほかに言い様がありますか? 適切で論理的でしょう。お兄様も暴力は程々にして下さいな」
「うん、分かったよ」
 うなだれた貴彦には、もう一人由美という、高校一年生の妹がいる。麗子、摩美、由美の三人に対して危害が加えられそうになると、貴彦は逆上してしまう。家長として植え付けられたドグマに近い。それ以外の貴彦は、おとなしく、むしろ気弱な対人恐怖症とも言いたい感じなのであるが。

「もう、大丈夫そうね。近藤先生、気をつけてくださいね、兄のことは十分、解っているでしょ」
「はい、麗子さん気を付けます」
 麗子に包帯を巻いてもらいながら、近藤は感激した面持ちである。
「おい、近藤。それにしてもなぜ頭から血を流したんだ?」
 貴彦には、全然、反省の意識は見られない。のぞき込んで近藤を問いつめる。
「おい、組関係だったら俺に任せろ」
 警視庁、第四課。通称マル暴にその人ありとうたわれた熊田が口を出した。
 近藤は落ち込んだまま、未だ立ち直っていない。タオル生地のローブに身をまとい小さくなっているが、これでも身長は百七十五センチはある。
「お兄ちゃん、近藤先生ね。渋谷で缶コーヒーに当たったの」
 摩美の言うことがいまいち明確でないのは、今に始まった事ではないが、さすがにこれは解らない。
「なぜ、渋谷で缶コーヒーに当たるんだ? おい熊田、分かるか?」
「先輩、よく分かりませんね」
 警視庁、マル暴の猛者の推理力の限界を超えているのであろう。
「たぶん、歩いていたら、空から缶コーヒーが降ってきて頭に当たったのよ。近藤先生なら、ありそうなことよ。近藤先生ならではと云うところかしら」
 麗子は、しれーとして言った。
「お姉ちゃんの言う通りよ。缶が空から降って来たんだって」
「そんな物が、降るのか???」
 貴彦は怪訝そうな顔をした。

「ただいまー!」
 玄関で明るい大きな声がした。朝から出かけていた、末っ子の由美が帰ってきたのだ。背が高く、カモシカのような姿態をした高校一年生である。ショートカットの髪で、キリリとした整った顔つきだ。ミュージカルスターを夢見る健康的な乙女である。
 由美は、実践女子学園に通っており。近藤は、横浜国立大学の教育学部出身で、英語の教師として実践女子学園に奉職している。貴彦の大学の後輩であった。
 貴彦も教育学部で東洋史を専攻しており、院への進学、教師としての奉職の希望があったが、いずれの進路も取らず、現在は食品会社のサラリーマンをしている。理由は、妹三人に対する、家長としての責任からであった。その間の事情は、唯一、麗子が知っている。
「コンドーム、来てたの!」
 由美の突然の呼びかけに、男三人は、ソファーからずり落ちてしまった。
「由美、なんなんだ! それは!」
 貴彦の頭脳は真っ白になった。
「えッ、コンドームのこと?」
「由美ちゃん、なぜ、僕がコンドームなんだ!」
「あら! 学校ではみんながそう言ってるよ」
 近藤は、泣き出しそうな顔で、貴彦に助けを求めた。
「止めなさい! そんな下品な! おい麗子、お前からも何とか言ってくれ」
 貴彦は、麗子に助けを求めた。
 麗子は、腰まで届く長い髪を後ろに束ね、美麗な表情を崩さない。
「兄ちゃん。コンドームってあだ名を付けたのは、姉ちゃんだよ!」
 由美の発言に、全員の視線が麗子に集中した。
「あら、その通りよ。『近藤努』でしょ、他に云い方がある? 当然の論理的帰結でしょ」 しれーと言い放った麗子は、立教大学大学院で、西洋哲学史を専攻している才媛である。
「だめだ! 絶対に許さんぞ!」
 貴彦はうわごとのように、言い続けた。
「お兄様に、人を許すとか、許さないとか云う権利はないわ。有るとおっしゃるなら論理的に説明して下さらないこと?」
「俺は、家長だ!」
「社会慣習的に、日本という世界では承認されている事実では在るわね、しかし、論点がずれてないこと?」
 貴彦は絶望の眼差しを麗子に向けた。妹の教育を間違ったとでも思っているらしい。
「お兄ちゃん、口では、お姉ちゃんに勝てるわけないんだから」
 色気なら、勝てるとでも言いたげに摩美が科をつくりながらいった。
「それに、どう考えてもお兄ちゃんは少し遅れていると思うよ」
 そう言いながら、摩美は、バックを引き寄せ、中から一枚の薄い袋に包まれた物を取り出し、貴彦の目の前に差し出した。
「そッ、それは! コンドー・・・・・!」
 貴彦の言葉は、悲鳴に近い。
「そうよ、お姉ちゃんに云われて、必ず持っているの。女のたしなみなんだって」
「麗子ーッ!」
 貴彦は、半分涙声である。熊田と近藤は、先ほどから口を開いたまま、北御門兄妹の話を聞いている。

 面白がって聞いていた、由美が時計に眼をやった。
「だめだ、遅れちゃう! 兄ちゃん、お小遣い」
 パニックを起こしている貴彦の頭に由美の言葉が突き刺さった。
「お小遣いは、毎月きちんとあげてるじゃないか」
「今日は、特別よ。オペラを見に行く約束をしたんだから」
「いくらだ」
 貴彦は、財布を取り出した。千円札が四~五枚しか入っていない。
「一万円よ、入場料だけで五千円なんだから」
 妹の願いは何としてでも、聞き届けたい貴彦の眼に、ハンガーに掛けてある近藤の上着が目に入った。
「先輩! それは・・・・・」
 貴彦は、近藤を振り返りもせず、ポケットに手を入れると財布を取り出し、一万円札を抜き出すと、由美に渡した。
「ありがとう」
 由美は、近藤に礼を言うと、ジーンズに覆われたカモシカの様な足で駈け出していった。「あーあッ、今日は、仏滅に三隣亡か・・・・・」
「近藤! 何か言ったか」
「せッ、先輩、何でもありません」

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