永久に未完の組曲
お兄ちゃんはサラリーマンの巻(三)



 
 

 貴彦も手伝い、食堂のテーブルを片付けると、広い会議室となった。壁を背にした正面に中央に福永工場長、右隣に業務課長と製造課長、左隣に貴彦と美智子が座った。集められた職員は約五十名である。
 机の上には資料がそろえられている。挨拶の後、貴彦が就業規則の改正について説明を始めた。有休休暇の増加と、慶弔管理規定の変更である。どちらも現在よりも労働条件は良くなり、従業員から文句の出よう筈がないものだった。
 そもそも、㈱山尾食品には労働組合がなく、代わりに総務部において福利厚生を担当しているのだ。オーナー経営の中小企業ながらも、家族主義を標榜して不当労働行為をはたらく企業とは一線を画し、労使関係の近代化に努めている。現社長の山尾清兵衛の方針だ。名前は旧態依然だが、この社長はかなり進歩的でリベラルである。
 質疑応答の時間も別段、貴彦が立ち往生する場面も現出しなかった。美智子の適切な補助があったおかげではあるが。
 パート従業員については二班に分かれて説明会がもたれた。貴彦の予想は外れ、パートのおばちゃんたちは実におとなしく、休息室での騒ぎが嘘のようであった。
「みなさん、質問はありませんか」
 貴彦は何度も同じ発言をしたが、おばちゃんたちは、下を向いたまま誰一人として声をあげる者はなかった。ついさっきまでの迫力は何処へいったのだろうか? 猫を被っているとしか言い様がない。

「ご苦労さん」
 終わった後に福永工場長が慰労の声を貴彦にかけた。
「終わったんですね。質疑応答、大変かと思いましたが、意外にすんなりいき驚いています」
「北御門さん、パートのおばさんたちは、公式の場ではまず発言はしてくれないわ。だからといって不満がないという訳ではないの。後のことは福永工場長宜しくお願いします」
 書類を整理しながら美智子が言った。
「山下君、分かっているよ。それが私の仕事だよ、いやそれだけが私の仕事と言っていいだろう」
「工場長がいらっしゃる限り、木更津工場は安泰ですわ」
「そう持ち上げるなよ。二百人からの女性だぞ、女房一人に手を焼いている私には、荷が重いよ」
「あら、私も女性ですわ」
「失礼、差別発言だったかな。北御門君、これは最近はやりのセクハラになるのかい」
「そ、それは受け取る側の感じ方の問題ではないかと・・・・・」
 貴彦には、工場長の気持ちがよく分かる。自分も三人の妹に手を焼いているのだ。もっとも、妹に言わせれば手を焼くのは兄の方だと言うことは間違いない。

 山尾食品木更津工場は、冷凍食品を製造している。物流の関係から、チルド商品は藤沢工場が扱っている。 
 会議の後は、工場長の案内で工場見学とあいなった。貴彦も美智子も白い長靴を履き、白衣に頭をすっぽり包む帽子を被った。
 逆性石けんで手を殺菌し、エヤーカーテンで埃を払い、水を張った浅いプールを歩き長靴の消毒をし作業場内へ入っていった。
「衛生管理は厳しくされているんですね」
 貴彦が言った。
「それが、食品工場の命だ。衛生管理はいくらやっても遣りすぎることはない」
「どういうことですか?」
「たとえば、いま逆性石けんに手を漬けて殺菌したこの手、細菌だらけだぞ」
 福永工場長は、手を差し出しながらそう言った。
「そ、そんな。じゃなぜ手を漬けるんですか」
「気休めだよ」
「き、気休めですか!」
「まあ、気休めは言い過ぎだが、表面的な殺菌しか出来ないのは確かだ。山下君は分かるだろ」
 工場長は美智子の方を向いた。
「ええ、逆性石けんで完全に殺菌するにはそうとう時間が掛かると聞いております」
「その通りだ。三十分は掛かる」
「さッ、三十分もですか!」
「そうだ、毛穴のなかまで浸透していって、滅菌するにはそれぐらいの時間手を漬けておくことが必要だ。しかし、そんなことをしている食品工場は何処にもない」
「一人一人が三十分、それじゃ仕事になりませんよね」
貴彦が言った。
「そうだ、そこまでしてもその手は直ぐに汚染されてしまう。ようは、汚染の塊まりである人体からいかに食品を守るか、これが衛生管理の基本だ」
 貴彦は美智子を見た。とても汚染物質の塊まりとは見えない。
「北御門さん、なに?」
「えッ、なんでもありません」
「ひょっとして、私が汚れた女にみえるの」
「とんでもありません! や、山下さんは清潔です」

 工場の中は、消防法で定められた最低限の窓しか取り付けられていない。これまた衛生管理の必要からであろう。照明はすべて天井に埋め込まれている。
 しばらく歩くと、冷凍機のうなりが響いてきた。瞬間冷凍ラインが並んでいる。三十メートルは有ろうかという六つのラインからは、冷凍食品が次々にながれ出てくる。マスクをし手術用の手袋をしたパートのおばちゃん達が、食品をトイレーにのせ、包装ラインへと導く。話し声も聞こえない神聖な職場の雰囲気に包まれていた。
 突然、一人のおばちゃんが、ボタンを押した。トラブルが発生したらしい。紅いランプが点灯する。仕込み室の方から、男性が飛んできて商品を調べ出した。ラインは止まり、男は冷凍機の扉を次々に開きだした。
 他の五つのラインは、何事もなかったように動き続けていた。
「工場長!」
「北御門君、いつものことだ、どうと言うことはないよ。いかにトラブルを早く発見するかが問題なんだ、それさえ踏まえていれば処置は簡単なものだ」
「そんなもんですかね?」
「そんなもんだよ、人生すべからくそうだ」
 福永工場長は何度も頷いた。
「身につまされるんでしょ、工場長。北御門さん、いまでこそ落ち着いているけれど、工場長は昔は大変だったんだから」
「おいおい、山下さんあんまり言わないでくれよ」
「はいはい、奥さんを大事にしてあげて下さいね」
 どうやら、さすがの工場長も美智子には頭が上がらない弱みをにぎられているようであった。
 所々で立ち止まり、工場長は機会の説明をし、商品の説明をする。貴彦は興味を持って質問を返す。パートのおばちゃん達は、ものも言わず一心不乱に立ち働いていた。


 同じ日の昼過ぎ、麗子は、都営三田線の白山駅を降り、小石川植物園に向かって歩いていた。大きめのバッグを腕に掛け、黒いマーメイドラインのロングスカートに、同じく薄手の黒いブラウスを身につけ、白いジャケットを羽織り姿勢を正して歩いていく。
 別にあえて内緒にしているわけではないが、何処に行くとも言わずに家を出た。行き先は文京区白山四丁目の吉田邸である。
 熱海で会って以来、何度か家に遊びに来るように吉田夫人から誘いがあったのだ。吉田
夫人は麗子のことがいたく気に入ったらしい。
 その屋敷はすぐに分かった。閑静な住宅街の中、かなり大きな家である。昔ながらの屋根付いた木造門に、吉田泰蔵という木の表札が掛かっていた。軒下には監視カメラのレンズが二つある他は、別に変わったところもない。
 柱のインターホンを押した。少し時間を要した。
「麗子さんね、お待ちしていましたわ。すぐに参りますから・・・・・」
 麗子がなにも言わないうちに、中から返事があった。吉田夫人の優しい声である。
 ほどなく、門の引き戸が軽い音をたてて、開かれた。
「いらっしゃいませ」
 吉田夫人は微笑みながら、白髪交じりのショーヘヤーの頭を下げた。紫地の江戸小紋の留め袖を身につけている。帯は黒基調の金襴の袋帯だ。何とも品がある。
「お言葉に甘えて伺いました」
 麗子も丁寧に頭をさげる。
「どうぞどうぞ」
 吉田夫人は、くだけた感じで先に立って案内をする。玄関に続く飛び石は、丁寧に洗われており滴がたれている。ツツジ、椿の植え込みも水が打ってある。清浄さに溢れた風情であった。
 
 座敷では、御老公こと吉田泰蔵が床の間を背に、黄八丈の着物を身につけ、こぼれんばかりの微笑みで麗子を迎えた。とても関東一円のヤクザのボスとは見えぬ、品と穏やかさを痩身に醸し出している。
 床の間には、『閑座聴松風』と読める力強い書が掛かっている。隅には、一輪の水仙が花瓶に挿してあった。
 黒檀の大きな座卓も前で、麗子は深々と頭を下げ、手土産を台に上に置いた。
「麗子さん、お楽にして下さいよ」
 開け放たれた障子の向こうには日本庭園が拡がっている。麗子には、爽やかな空気が部屋の中を対流している気がした。
「どうぞ、お楽に。膝も崩して下さったら」
 吉田夫人が、ティーポットとコップを盆に乗せてきた。麗子の好みを知っての気配りだろう。
「まさか、横座りになるわけには参りませんわ」
「あッ、ごめんなさいね。そのご洋服では・・・・・隣の洋間に行きましょうね」
「これは失礼、咲子の言うとおりだ。さー行きましょう」 
「いえ、どうぞ気になさらないで下さい。実はわたくし、正座が得意なんです。何時間座っても、足がしびれないんです。不思議ですけど本当なんです。それに、このスカートは膝上までの、スリットが入っているので楽なんです」
「スリットってなんですか?」
「いやですわお爺さん。切れ目のことですよ、チャイナドレスにも入っているでしょ。お爺さん好きじゃないですか」
「まあ、好きではあるが・・・・・お前少し言い過ぎじゃないか」
 御老公も二人に掛かってはかたなしである。

「わたくし今日は少しびっくり致しました。お二人とも和服なんですもの」
「そうですね、先日の熱海では二人とも洋装でしたものね。今日は麗子さんにお茶を差し上げようと思いましたの。せんじつのお話では、お茶も、お花も習い事はしたことがないと仰いましたので、差し出がましいようですが、一献と思いました。ご迷惑でしたかしら」「とんでもございません。わたくしお茶は大好きです。もっとも紅茶ですが」
「煎茶、抹茶はいかがですの?」
「煎茶は好きで、よく飲みますが、抹茶を頂いたのは、高校の時、茶道部から招待された時飲んだ事があるだけです」
「そうなんですか、とてもそうは見えませんよ。慎み深くて、優雅であられて、茶道の雰囲気をまとっていらっしゃるわ」
「咲子の言うとおりだ、近頃まれに見る淑女という感じがする」
 吉田泰蔵は、夫人の言葉に相づちを打った。
「恐れ入ります。比較的みなさんにそう思われるのですが、実際は違うのです。寸鉄人を刺すだの、氷の刃だのと言われますわ」
「はッはは、表面に現れた行為はそうかも知れんが・・・・・世の中、眼明き千人、盲千人という諺もある。どうなんだろうな」
 吉田泰蔵は頷きながら一人で納得している。そばで夫人も頷く。
「麗子さん、茶室の方に参りましょうか」
 吉田夫人が立ちあがり麗子を誘う。麗子も立ちあがった。そのとき、麗子の携帯電話が突然、軍艦マーチを奏でだした。
 ちょっと失礼しますと会釈をし、麗子は座を外した。
吉田夫妻は顔を見合わせ微笑んだ。吉田夫人は笑みがこぼれるのを押さえようもなく、ハンカチで口を押さえた。
「申し訳ありません、兄からの電話でした。携帯の電源は切らなかったのは、わたくしのうかつでした」
「いいんですよ、気になさらないでね」
「麗子さん、まったくあんたって人は、何とも魅力的なひとですな」
 三人は、和やかに談笑しながら、縁側の側の廊下を吉田泰蔵が露払いをするように、茶室へと向かって歩き始めた。

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