永遠に未完の組曲
夕焼けに去っていったの巻(十)



 


 夕焼けに去っていったの巻(その十)

「なんだ、なんだ! いったいどうなってるんだ? 如何いたしましょう御宗家様!」
 ごついだけが取り柄の、鉄心の取り巻きが言い放った。どうやら、師匠の出番を演出しているつもりらしい。
「皆の者、この場の始末は儂が預かっても良いぞ。国会議員にも顔が利き、静岡県知事にも、つてがあるこの儂がな」
 加納鉄心は、胡座をかいた姿勢のままふんぞり返る。
「これは、有難いお言葉! 静岡県警の皆さん、御宗家様が預かると仰っておられるますぞ…」
「さようさよう、それがよいでしょう。ねえ皆さん!」
 鉄心の取り巻きが、次々に好きなことを言い出した。安岡は『こやつらは何だ!』と思いながらも、先ほどまでの気持ちが萎えていくのだった。

「ばっかじゃない! おかしなオジン! ねえ摩美ちゃん」
 由美はどうやら、どうしてもこの場を紛糾させたいらしい。
「由美ちゃん、変態親父よ! 気持ちわるー!」
 摩美も、睨みつける鉄心一同に怯むことなく好きなことを言いいだした。可愛い声と、罵声の言葉の落差に、思わず安岡の頬が緩んだが、彼は慌てて体勢を立て直す。
 刑事、ヤクザと、この場に居合わせた人間は、固唾を呑んで展開を見つめる。銃撃事件騒動は何処へ行ったのだろうか。
「な、何だと! へ、変態! だ、黙れ小娘! 女子供の出番じゃない!」
 鉄心は、顔を真っ赤にして怒鳴った。興奮のあまり、呂律がおかしくなっている。
「えーっ、いま、女子供の出番じゃないって言った! 女性蔑視! 差別だわ! 刑事さん逮捕してよ」
 摩美は負けていない。しかし、変態親父と言うのと、女子供というのはどちらが罪が重いのだろうかと安岡は、真剣に考え出した。そして、彼の出した結論は、少なくとも警察の出番ではないということだった。

「お兄ちゃんったら! 変態親父が虐めるのぉ、やっつけてよ!」
 摩美が、貴彦の腕を引っ張る。妹を侮蔑する者に対しては、信じられれないぐらいに、徹底的に痛めつける貴彦だが、さすがに二の足を踏み困った顔をしている。
 安岡は思い出した。半年前、意図的にではなく偶然、摩美の胸に触り悲鳴を挙げさせた熱海のヤクザ五人が、病院送りになったことを。ふと思い出したように安岡の視線は、麗子の姿を追った。
 麗子は、腕を組んだまま微かに首を傾け、言葉を発しようとはしない。安岡は安堵の胸をなで下ろす。
「由美ちゃん、やっつけてよ!」
 摩美の言葉に、立ち上がり掛けた由美の腕を取ってイチローが抑えた。
「摩美ちゃん落ち着いて、少し言い過ぎだよ」
 イチローが摩美をたしなめる抑えた声が、宴会場に浸み渡った。
「だって、あの変態親父、私のことを女子供と言ってバカにしたのよ!」
「それはね、摩美ちゃんのように可愛い子が、暴力沙汰の場に居たら危ないという事だと思うよ。ね、そうですよね御宗家」
 言われた加納鉄心は、少し怯んだように見える。まあ恐らく、イチローの言うような気持ちはなかったろうが、この辺で手打ちにしてもいいかな? という顔をする。“俺様が、たかが女子供相手に…”とでも思っているのだろうか?
「ほんとー? 変態おじさん」
 摩美の言葉が折角収まり掛けた場を、また紛糾させる。イチローは、如何ともしがたいとばかりに、手で顔を覆った。
「何おー! このガキー!」
 弾かれたように、鉄心が立ち上がった。よほど怒ったらしく、怒髪天を突くとでもいうごとく、血相を変えている。安岡には先の展開がさっぱり見えない。屏風のところに立つ刑事も自分の役目を忘れたようだ。

「まあ、まあ、鉄心さん、落ち着いて下さい。この場でのご無礼の段、わたくしが責任を持って落とし前を付けますから」
 さすがに黙って居れぬと思ったらしく、石田組長が席を立ち加納鉄心のところに足を運ぶ。今にも飛びかからんとしていた鉄心を座らせ、耳元に何かささやいている。“ああ、金だな!”と安岡は思ったが、おくびにも出さない。
「組長さんにそう言われれば、この鉄心も鉾を収めずにはおられぬな」
 憮然とした表情だが、騒ぎにする気持は無くなったようだ。というか、彼らは問題を起こして金にするのが商売でもあるからこれで良いのだろう。
 しかし、配下の者は黙っていない。三人の黒い道衣を身につけた弟子どもが騒ぎ出した。
「御宗家、このままで宜しいのですか? 私は納得できません」
「私にお任せ下さい。懲らしめてやります」
「小娘、このままですむと思うなよ!」
 道衣袖をまくり、太い腕を見せつけるように弟子どもが雄叫びをあげる。威勢の良い言葉とは裏腹に、鉄心に対するゴマすりなのは、見え見えである。というか阿吽の呼吸による演出とも言えるだろう。そんな事は百もご承知の石田組長である。こうなってくるとすべてがなれ合いじゃないか。

「ふん、スケベエ!」
 やっと落ち着き掛けた場の雰囲気を、由美の声が破った。小さく呟いた彼女の声を、鉄心の鼓膜が捉えた。
「なんだとー! ガキぁー!」
 鉄心の、小娘二人に対する怒りはどうやら本物のようだ。格好も糞もないように怒鳴りつけた。社長の直樹と女将の多美子は、先ほどからどうなることかと心配らしく、オロオロしている。しかし、摩美と由美は何処吹く風というように、鼻先で笑う。静岡県警にその人ありと言われ、暴力団には絶対の自信を持っていた安岡はいささか調子が狂って、どうして良いか分からない。彼は振り返って、警視庁マル暴のクマ、こと熊田警部補を見た。視線があったとたん、熊田は肩を竦めてお手上げという顔をする。

 その時、安岡は自分を射すくめる視線を感じた。何故だか分からぬが、彼の背筋を冷や汗が伝う。百戦錬磨の彼の神経が無意識のうちに何かを感じ取ったようだ。この感じは、彼にとって決して良いことではない。ある種の危険のシグナルと言うことは、長年の経験で分かる。
 長い銀色のナイトドレスの美女が彼に近づいてくる。麗子であった。彼女は腕を組み、かすかに微笑んでいるように見えた。安岡は、それが氷の微笑であることを知らない。
「警部さん、恐れ入ります」
 極めて穏やかに麗子が話しかける。
「は、はい…な、何でしょう?」
 安岡は、落ち着きを失った自分の心が信じられない。
「ごくろうさまでございます」
 麗子はそう言うと、細い右の指で安岡の左手を取り、上に持ち上げた。そのまま麗子が近寄る。身長の高い彼を見つめるように、少し顎を上げるから堪らない。彼の心臓の鼓動がドキドキ胸をうつ。思わず抱きしめ唇を重ねたくなる欲求を必死に抑える。
 顔と顔が三十㎝ぐらいに近づく。麗子の左手が、安岡のスーツの内側に延びる。彼の眼はトロンとして、視界は麗子以外を全く捕らえていない。麗子が何かを持ってスーと離れた。
「あっ!」
 安岡は一瞬我に帰り、悲鳴のような声が彼の喉から漏れた。何と麗子の手には、S&W社製の、M37エアウエイトが収まっているではないか。安岡のホルスターから抜き取られたのだ。

 麗子は、拳銃を持ち右手を高く差し上げた。ガウンの袖が下がり、白く華奢な彼女の手が眩しい。あたかも、ニューヨークの自由の女神像に見える。
「あっ、やった!」
 熊田警部補から絶望した呻きが漏れた。彼は新宿西口公園での事件が、頭に浮かんだに違いない。しかし、安岡には、熊田の呻き声が何を意味するかは、むろん分からない。
 その直後だった。警察正式拳銃M37エアウエイトが轟音を発し、弾丸が天井を打ち抜いた。麗子は、右手を天井に差し上げたまま、微動だにしない。微かに麗しい彼女の唇が微笑んだように、安岡には思えた。

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