永遠に未完の組曲
夕焼けに去っていったの巻(十一)



 


麗子は、かすかに目を細め、挙げていた右手をゆっくりと水平に降ろした。彼女の銃口が向いた先の金屏風には、今にも飛び立たんとばかりの鳳凰が描かれている。
 安岡は、ゴクリと唾を飲みこむ。その時、またもや宴会場に銃声が鳴り響いた。彼女の水平に伸ばされた細い腕から発射された銃弾は鳳凰の頭を正確にとらえた。麗子は、少し頸をかしげる。その意味するものを誰も理解できず、もはやこの事態に言葉を発する者は誰も居ない。
 通常ならば、警察官の職務として飛びかかって彼女を取り押さえるはずだが、手を出す者は誰もいない。楚々とした美女が、二発も発砲したのだ、そのあり得べき事態に状況を判断する能力が吹き飛び、脳内でパニックを起こしているに違いない。
 安岡は、麗子を取り押さえるどころか、その足下に120㎏の巨体をひれ伏したい衝動に駆られている。

「動かないで!」
 麗子の凛とした声が響く。彼女は機動隊員に銃口を向けたのだ。それは、思わず逃げだそうとする隊員に向けた命令であった。 
 三発目の銃声が響いた。弾丸はジュラルミンの楯に向かい、バチンという金属音を発して弾き飛ぶ。
楯で方向性を変えられた弾丸は真っ直ぐに加納鉄心に向かい、彼の頭上数㎝のところを掠め、白壁に突き刺さった。鉄心は腰が抜け、眼と口を大きく見開き、よだれを垂らしながら放心した。
「貴方は、少し静かにしてくださいませ」
 跳弾であった。しかも、ゴルゴ13並、つまり、プロスナイパーも驚く腕前であった。彼女は何処で拳銃の腕を磨いたのだろうか?

 宴会場は静寂に包まれた。ヤクザと警察の猛者が一同に会しながらも、咳すら放つ者はいない。麗子は安岡を正面に見据え、真っ直ぐ近寄ってくる。
「おじゃま致しました。始末書の書き方は、熊田さんに教われば、よろしいことよ」
 そう言うと、拳銃を安岡に手渡した。彼の太い腕は小刻みに震えだし止まらない。弾丸を発射した拳銃が重く手にのし掛かる。未だ暖かみを保った拳銃であった。
 安岡は、崩れそうになる身体を膝に力を入れて必死に支えた。
「ああ、そうだわ、この拳銃の照準は右斜め上にずれておりますわ。直しておいた方がよろしいことよ」
「ハッ、ハイ…そうさせて頂きます…」
 安岡は直立不動の姿勢を取った。先ほど金屏風の鳳凰の頭を打ち抜いたとき照準のずれを把握したのだろう。
「では、ごめんあそばせ」
 そう言うと、麗子は何もなかったように踵を返す。踝まである銀色のナイトガウンを翻しながら、優雅に歩んでいく。
 彼女の姿が宴会場の外に消えたとき、凍りついていた空気が解き放たれたように、全員の口から大きく吐息が洩れた。
 安岡は呆然として、『確かに、俺が四発の弾丸を放った始末書を書けばすべてが丸く収まる…』という自身の脳髄の遠くから響いてくる言葉を、彼は聞いていた。


 安岡は機動隊員と刑事に因果を含めて帰らせた。すんなり帰った訳ではなかったが、あまりの出来事と自分たちの不甲斐なさに落ち込んだ特別地方公務員達は、静岡県警のマル暴と警視庁のマル暴の説得に応じたのだった。
 熊田は、安岡に言った。
「たいして、被害が出た訳じゃない。ヤクザは黙秘するだろうし、器物破損でホテルが告訴する訳がないだろうが、それに、いざとなったら警視庁副総監、毛利組織対策部長のお出ましだ」
 熊田は、新宿西口事件の例を出して安岡に安心するように話しかける。毛利副総監の実力のほどを知らしめられたのか、熊田は自信を持って安岡を説得しているが、今ひとつ安岡は安心できない。そもそも、どこで間違ってしまったのか、筋肉で出来た脳味噌で考えるが、分からない。何れにせよ自分はもうあがいても無駄だと言うことは分かる。

 台風一過の何とやら、宴会場は和やかな場所に一変していた。社長の直樹と多美子の座を取り持とうとの必死の奮闘が功を奏したらしい。何と言ってもヤクザの保養施設である。警察とのトラブルの評判が立っては絶対まずいはずだ。
 方々で、和やかに盃を交わし談笑している。とはいっても話題は先ほどの麗子の破天荒な行動で持ちきりである。
「あの射撃は凄かったな!」
「ああ、とんでもないことだ! 信じられん!」
「あれは、跳弾という射撃方法だ!」
「じゃあ、狙って打ったとでも?」
 話題は尽きないらしい。
 
 二人の警部補も仲良く盃を交わしていた。勤務時間は終わったと考えているらしい。
「おい熊田よ、儂は心底ビックリしたぞ。あの女性はどういう方なんだ。とても普通の人間とも思えんが?」
 安岡は恐怖と興味の入り交じった不思議な感覚に耐えられず、思い切って熊田に尋ねた。
「ああ、麗子さんか」
「れ、麗子さんと言うのか…」
「不思議なんだよな、大学院で古代ギリシャを勉強している俺の先輩の妹さんなんだが……綺麗で、スタイルが良くて…も、もしや、お前! 麗子さんが好きになったか?…ち、違いない! このやろー!」
 警視庁のクマが、安岡につめよる。
「なんだとーっ! 先に知り合ったからと言ってなんだ!」
 安岡の答えは、どう見ても熊田の詰問を肯定している。120㎏と100㎏の猛獣がまさに掴みかからんとしたとき、声が掛かった。
「うるさいぞ!」
 その声を聞いた熊田が、極端に萎縮したのを見て安岡は声の主をみた。
「俺の妹を、酒の肴にするつもりか!」
 厳しい眼光が彼等を見据えていた。貴彦であった。安岡はこの男の怖さをまだ十分には分かっていない。
「せ、先輩、とんでもありません!」
 熊田が貴彦の前で平伏するのが、安岡には理解できない。ましてや、由美と摩美が貴彦の両手を押さえて動かないようにしている訳など、知るよしもなかったのだ。


 明くる日のゴールデンホットアイランドホテルは何もなかったように時間が流れ、夕方になっていた。中庭でイチローは由美に稽古をつけている。
 昨日も稽古、今日の午前中も稽古、そして夕方の今まで稽古を積んでいるのだ。汗をかきながらも、疲れた素振りを全く見せない両人は大したものである。
 昨日のように邪魔者は出現しない。直神伝厳統流の加納鉄心一派は、何処に消えたかと思うほどに静かにしており姿を見せない。宴会場での出来事が骨身に染みたのだろう。
しかし、何処かの窓から八つの畏敬を込めた視線が、二人を追っていることをイチローは感づいていた。
 二人は先ほどから体術の稽古を始めた。空手着を身につけ打突、組み討ちを行う。イチローはこの二日間で進境著しい由美の資質に驚いている。
 それにしても、何という兄妹なんだろうと思わずには居られない。昨日の麗子の振る舞いには心底驚愕したのだった。民間人が拳銃の訓練など行うことが出来るのだろうか?
 彼は改めて北御門流武術の道統について考えさせられてしまった。
その麗子は、以来、食事の時以外は姿を見せず部屋に籠もったままである。なるほど、彼女が一人で部屋をとった訳がイチローにも分かった。
 摩美とゲンは、朝食の後二人で出て行ったきりである。何処で何をしているのやら。貴彦は社長の直樹と話し込んでいる。帰りたくて仕方がない熊田が、嫌々付き合っている図もおかしい。

 イチローと由美がタオルで汗を拭きながらロビーに戻ってきた時だった。石田組の石田辰雄組長と出くわしたのだ。彼は上品なスーツを身にまとい、白髪交じりの紳士そのものだった。
「やぁー、これは、これは、丁度良かった。イチローさんと申されましたかな、あなたには随分とお世話になりました」
 にこやかに組長は話しかけてきた。昨日の襲撃者の件だなとイチローは思った。
「いえいえ、たいしたことは出来ませんでした。それよりも始末をつけたのは麗子さんですから」
「麗子さん…昨日の拳銃の方ですね。その方には、後ほど改めて御礼にまいります」
「おじさん、止めといた方がいいよ」
「どうしてだね? 由美ちゃん」
 この年の離れた二人は友達なのである。女子校生とヤクザの友情とは何だろう?
「姉ちゃんは、本を読んでいるか、ノートパソコンに向かっていると思うの。邪魔したら怒られるよ」
「そりゃー、怖いわ!」
 石田組長はおどけたように言ったが、イチローには彼の本音に思えた。

「おお、来たか!」
 組長が声を掛けた方から、二人の男が出てきた。後ろには女将の多美子が従っている。一人は、放免祝いの本人、吉松であった。巌のようなガッシリした身体を、茶のダブルのスーツで包んでいる。彼は昨日から殆ど頭を上げず俯いたままであった。もう一人は何と、昨夜、宴会場に乗り込んで吉松を襲った男ではないか! 背は高いが身体は細い。この若者も俯いたままだった。
 二人は、イチローと由美に深々とお辞儀をして玄関に向かった。女将が見送るために後に従う。組長はその場に立ったままで二人を見送る。
「おじちゃん、あの二人…大丈夫なの?」
 由美の疑問は無理もない。イチローもその事が気に掛かる。
「大丈夫だよ……あの二人、実は本当の親子なんだよ。吉松の女房、あの若者にとっての母親は二年前に死んだんだが、色々あってな…昨日は二人でじっくり話し込んだはずだ。何というかな…あの息子も吉松の血を引いて、情が深く仁義に篤い感激家らしい。吉松と同じように生きていくのは辛いだろう……」

 イチローは組長と由美の話しを聞くともなく聞いている。玄関の外に出た二人に女将が深々と頭を下げる。玄関を背に向け立ち去っていく二人の背中を真っ赤な夕日が染めた。 夕日、それはイチローの記憶の底から蘇る何かであった。何かは分からない、しかし冷静で感情の起伏のない、いや、抑えるのが習い性になった、彼の瞳が潤んできた。しかし、その涙を彼は自覚していない。
 由美はビックリして、イチローを見つめた。しかし、声を掛けることが出来ないように、唖然とした顔をする。
 立ち去っていく二人の背中を夕日が染める。それはイチローの潜在意識に何かを呼び覚まそうとしていた。遠い昔に去っていった何かであった……。
「うぉーっ!」
 イチローが叫んだ。彼の瞳から、涙は次から次へと溢れ出ている。

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